皆さんこんにちは。お元気ですか?
いよいよ6月に入り、衣替えのシーズンになりました。
コートを脱ぎ、セーターも脱ぎ、半袖になると開放的な気分になります。
できればマスクも脱ぎ捨てたい! ですよね。
暑くて汗もかくようになってきましたし、水分をとるときにいちいち取るのは面倒です。
いっそマスクに穴でも開けようかと思ったりします。
さあ本日のメニューは、リストとブラームスの作品です。
まずはリストの「即興円舞曲」です。
即興円舞曲 変イ長調 S-213
リストらしくもあり、とても愛らしい曲ですね。
即興ワルツとも呼ばれています。
即興曲は自由な形式で書かれた性格的小品の一種です。またはアンプロンプチュともいう。
即興的に書かれたわけではなく、即興演奏そのものでもありません。
ジャズの即興演奏とは全く違います。
この作品の作曲年代は定かではありません。おそらく1842年から1852年までに作曲されたものと
見られています。5分ほどの小品ですが洗練された優美な曲想に仕上がっています。
フランツ・リスト
リストは同時代に、パガニーニ、ベルリオーズ、ショパン、シューマンといった優れた
音楽家がいて、音楽的に大いに影響を受け、そして親交も深かった。
1838年にドナウ川が氾濫したときに、チャリテイー・コンサートを行い、ブタペストに
多額の災害救助金を寄付しています。
リストは多くの女性との恋愛関係を結んだことも有名です。
特にマリー・ダグー侯爵夫人。この方はのちに、ダニエル・ステルンのペンネームで
作家としても活躍しました。
この女性とリストは1835年にスイスへ逃避行の後、約10年間の同棲生活を送り、3人の
子供が生まれました。
そのうちの一人が、のちに指揮者となる、ハンス・フォン・ビューロー。そしてさらに
リヒャルト・ワーグナーの妻になるコジマがいました。
しかし1844年にはマリーと別れて、再びピアニストとして活躍しましたが、1847年に
演奏旅行の途中のキエフで当地の大地主であったカロリーヌ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン
侯爵夫人と恋に落ち、同棲しました。彼女とは正式な結婚を望みましたが、カトリックでは
離婚が禁止されている上に、複雑な財産相続の問題も絡み、認められませんでした。
この後のリストの人生については、またの機会にお話しいたします。
次の作品に参りましょう。
愛のワルツ 作品39−15
このワルツをかいたブラームスは意外にもウインナ・ワルツ好きで、あのワルツ王
シュトラウス二世と親しく交際するほどでした。
この曲は「ワルツ集」に納められていますが、中でも有名な楽曲がこの「愛のワルツ」と
「ブラームスの子守歌」です。
元々は連弾用ですので、こちらもどうぞお聞きください。
愛のワルツ 連弾
これは贅沢な連弾ですね。
お二人のピアニストが2台のグランドピアノで奏でる「愛のワルツ」。
ヨハネス・ブラームス
彼は1833年にドイツで生まれました。
父親はコントラバス奏者で、ブラームスは6歳からバイオリンを教えてもらいました。
7歳のとき、コッセルについてピアノも習いました。コッセルはブラームスの優れた
才能を見抜いて大変熱心に教えました。
10歳で演奏会に出場し、12歳の時に作曲を勉強しました。このときにバッハやベートベン
を習い、それに強く影響されました。
彼の生家は貧しかったので、13歳で学校を辞めダンス場などでピアノの演奏をして
働きました。17歳の時には、ハンガリーのバイオリニストであったホフマンと
友達になり、ハンガリーの音楽にも興味を持つようになりました。
20歳の時にリストにあって、リストが作曲したソナタを演奏している時に
ブラームスは居眠りをしてしまい、リストは2度とブラームスとは合わなかったそうです。
まとめ
毎回思うのですが、作曲家の人生は、曲だけでは語り尽くせないことが多くあります。
今回のリストとブラームスも紆余曲折ありました。
そのような中でも演奏活動や作曲活動をして行ったわけですね。
私も見習うべきことがたくさんあります。
また、リストの女性関係を、奔放というべきか、真面目と取るべきか、分かりませんが、
その時の気持ちに素直にしたがったのでしょう。男性がよくいう「言い訳」ですが。
ではまた。