歌と踊り 第1番(モンポウ)、ゴリウォークのケーキウォーク(ドビュッシー) ピアノ名曲集より 

皆さんこんにちは、お元気ですか?

ワクチン接種の経験者も私の周りに、ちらほら出始めまして、いよいよ自分も

接種する覚悟が固まりました。

実は少し躊躇していたのです。

ですが先日テレビで女医さんの方が「今回のワクチンは、ウイルスを水で希釈したものは入っていない」

と専門家としてのご発言を聞き、かなり納得いたしました。やはり専門家のご意見は貴重です。

 

さてノスタルジックなクラシックピアノの名曲集。

今回は「歌と踊り」モンポウ作曲をまずはじめにお届けいたします。

 

歌と踊り

 

 

モンポウが作曲した15曲の作品群が「歌と踊り」になります。

そのうち13曲はピアノのために描かれていて、第13曲はギター曲、第15曲は

オルガンのために書かれています。

 

ではここで、ギターの演奏もどうぞ。

 

 

おお、良いですね! 非常にノスタルジックで懐かしいヨーロッパの片田舎のイメージ。

楽器が違うと、こうも表現方法や音色に変化があるものなのですね。

 

フェデリコ・モンペイ

 

カタルーニャの鐘造りの父と、フランス人の母との間に生まれたモンぺイは、おばさんから

ピアノを教えてもらい、15歳の時に初めて公開演奏をしています。

1909年にガブリエル・フォーレの演奏会を見て作曲家になることを決心しました。

地元バルセロナのリセウ音楽院でピアノを学び、パリにゆきパリ音楽院への留学を志すが、

断念し、その地でピアノの指導を受けていた。

 

フランスの作曲家のドビュッシー やサティに強烈に影響された最初のピアノ曲集の第1部を

仕上げて、1914年に第1次世界大戦を避けてバルセロナに戻り、最初のピアノ曲集を書き上げた。

その後1920年過ぎに再びパリを訪れ、ケーキ屋を開くが間も無く倒産した。

1937年までは神経衰弱のため作曲はしなかった。

1941年にナチス軍によるパリ占領を避けてバルセロナに帰郷、同年ピアニストと知り合い

長い友情ののちに1957年に結婚した。

 

カタルーニャ帰国後には、サン・ジョルディ王立音楽院の教員になり、カタルーニャで

静かな生活を送りながら創作活動を続け、94歳で他界した。

 

 

ゴリウォークのケークウォーク

 

ドビュッシーの作品「子供の情景」の中の1曲です。

 

 

ドビュッシーが「シューシュー」と呼んで可愛がっていた一人娘のクロード=エンマ

のために作曲した「子供の領分」の中の一曲です。

この「ケーキウォーク」と言うのは、黒人の間で発祥したダンスの一種で、2拍子の

軽快なリズムからなるもので19世紀まつにアメリカ南部で20世紀にヨーロッパへもたらされて

流行したそうです。その後アメリカ南部へ伝わりジャズの起源の一つともなった。

一説には「ケーキ」を賭けて巧みさを競い合って踊ったと言う。

 

 

クロード・アシル・ドビュッシー

 

 

フランスの作曲家ドビュッシーは長音階や短音階以外の先方や自由な和声法などを用いて

作曲し、その伝統から外れた音階を和声の用い方から19世紀後半から20世紀初頭にかけて最も

影響力のあった作曲家の一人です。

幼少期の彼については本人が語ろうとしなかったため、どうのように過ごしたかは不明です。

しかしあの詩人のヴェルレーヌの義母に音楽の手ほどきを受け、父の知人のヴェルレーヌの義兄

でオペレッタ作曲家のシャルル・ド・シヴリーとの出会いから音楽教育を受けました。

 

まとめ

 

今回の作品はいかがでしたか。

私はモンペイと言う作曲家を知りませんでしたが、かなり風情のある良い作品を

残していますね。個人的には彼の人生が、戦争によって翻弄されたことがかなり残念

な気がします。やはり戦争は文化・芸術にとって何も良いことがありません。

人の心も強く影響を受け、回復するまでに大変な時間が、かかります。

 

今もウイルスのために文化のみならず、スポーツでの交流などが活発にはできません。

そんな中で迎える「オリンピック」ですが、これは歴史に残る大変な「TOKYO オリンピック」

となるでしょう。

 

ではまた。

 

 

調子の良い鍛冶屋(ヘンデル)・ カッコウ(ダカン) 「ピアノ名曲集より」ノスタルジックな曲

皆さんこんにちは。お元気ですか。

連日の突然の雨は、まるでスコールのようです。

これが日本の「梅雨」であったか? と、私はふと思います。

少し前に行ったタイのスコールのようです。

もはや日本は熱帯気候になってしまったかのような毎日ですね。

 

もし、オリンピックの100メートル決勝の時に突然雨が降ってきたら

思い出深いレースになるでしょう。

 

では今回も本当に懐かしい曲をお届けいたします。

まずは、ヘンデルの「調子の良い鍛冶屋」です。

 

 

調子の良い鍛冶屋

 

ヘンデルの「ハープシコード組曲第1集」第5番 ホ長調 HWV.430の終曲

「エアと変奏」につけられた通称です。

エアに続いて5つの変奏が続きます。

日本では「調子の良い鍛冶屋」と言う訳語が定着していますが、これだと

「お調子者の鍛冶屋」と言う誤解を招きかねないために、新たに「愉快な鍛冶屋」

と言う訳語も使われている。

 

 

こちらは有名なハレルヤコーラスですが、このヘンデルの肖像画があまりなく

この絵が一般的ではないでしょうか。

 

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル

 

ヘンデルはドイツ出身の音楽家で、イタリアで成功した後にイギリスで長年活躍

しました。

ヘンデルは幼少期から非凡な才能を示していましたが、父は彼を法律家にしようと考えており、

ヘンデルが音楽の道へ進むことは賛成していませんでした。

ある日、真夜中に自分の部屋を抜け出して、ピアノのある屋根裏部屋で月の光を頼りに

ピアノをずっと弾き続けていますと、後ろにお父さんが立っていた、と言うお話もあります。

 

いつの時代も親は子供を立派な職に就かせたい気持ちが大きく、あまり本人の希望を

聴くなどと言うことはないようですね。

ヘンデルも12歳でお父さんを亡くして、父の望みどうりに法律の勉強をしましたが、やはり

音楽と離れることはできずに、教会のオルガニストになりました。

そのご幸いなことに当時のヴァイセンフェエルス公爵がヘンデルのオルガンの演奏を

気に入り、ヘンデルは公爵の援助のおかげで音楽の勉強を続けることができたそうでう。

好きな音楽の道に進めてよかったですね。

 

次の曲は「カッコウ」です。

 

かっこう

 

 

お歌の「かっこう」ではありませよ。

現存する作品の中で最も有名な「かっこう」です。

 

 

ルイ=クロード・ダカン

 

1694年生まれのフランスの作曲家ダカンは、オルガンやクラブサンの演奏家として

有名でした。

パリの音楽家・楽器製造家の一族に生まれた彼は、幼少期から神童の名を欲しいままに

しており、6歳の時にルイ14世のための御前演奏を行った。

教会のオルガニストとして、プチ・サンタントワーヌ教会、サン・ポール教会、

コルドリエ教会、そして王室オルガニスト、のちにノートルダム大聖堂オルガニストの

称号を手にした。

 

現存する作品はあまり多くはないですが、この「かっこう」はさすが名オルガニストの

作品と感じさせるものです。

 

まとめ

 

ヘンデルの時代も今の時代も、親の影響というのは大変に大きなもので、

子供の人生を遠回りさせてしまうこともあります。

反対されても突き進む場合もありますが、今ではあまり反対を強くすると

「モラハラ」とか「パワハラ」とか言われそうですね。

親子の場合は、ほとんどが子に対する愛情からくるものなのですが、それが

幼い子供には理解できないのです。

 

時代が変わっても、親が子を思う気持ちに変わりがないわけですね。

 

ではまた。

「トロイメライ」 シューマン・「2声のインヴェンション」 J.S.バッハ 「ピアノ名曲集」より

皆さんこんにちは。お元気ですか?

各地でのコロナワクチン接種がスタートしているようですが、

若い方の感染のリバウンドが報告されているようです。

リバウンド って何にでもあるのですね。

体重のリバウンドはもちろんのこと、運動にもあるそうです。

学生時代までスポーツをやっていた人が社会人になって、運動をやめた途端に

リバウンドすることです。(悲しい)

 

さて今回はみなさんよくご存知の「トロイメライ」と「インヴェンション」

をお届けいたします。

 

まず、トロイメライからです。

 

トロイメライ

 

 

シューマン作曲の「子供の情景」作品15からの、第7曲が

トロイメライです。 トロイメライとは(夢)を意味する言葉だそうです。

1838年の2月から3月にかけて作曲され、完成は4月までかかったそうです。

この曲はあのフランツ・リストを感動させたそうです。リストは

「この曲のおかげで私は生涯最大の喜びを味わうことができた。」と手紙に

書いて送ってきたそうです。また週に2、3回は娘のために弾いていると明かして

います。お子さんに急かされてリストがこの曲を何回も弾いている姿、ちょっと

想像できませんが、素晴らしい音楽環境ですよね。

 

       こちらはリストです。

 

ロベルト・シューマン

 

シューマンは、7歳からピアノを習い始めましたが、作曲にも興味を示して

11歳の時には、誰にも教わらずに合唱曲や管弦楽曲を作りました。

この辺りが天才ですね。

中学生になると文学、法律、哲学に興味を持つなど広く勉強していましたが、

20歳の時ピアニストになることを決心して、正式に音楽の勉強を始めました。

 

音楽雑誌も出版して活躍していました。そのためショパンやブラームスもその雑誌により

多くの人に知られるようになりました。

ここで彼の文学的な才能が発揮されたのですね。

 

 

そもそもシューマンの父親は文学者を志していて、のちに書店を開業したのです。

書店と出版社を設立していて、バイロンの翻訳全集などを出版していたそうですl

父も物語をかき、商業的な論文や雑誌の編集もこなして、事業に成功し土地の名士で

あったそうです。

想像するに裕福な家庭であったようですね。そしてロベルトが7歳の時にドレスデンにゆき

ウエーバー指揮によるベートーヴェンの交響曲を聴いて、大変感動したそうです。

 

 

次の曲はバッハの作品です。

2声のインベンション 第1番 ハ長調 BWV722  (J.S.バッハ)

 

2声のインヴェンション

 

 

弾いたことがある方も多いのではないでしょうか。

「インヴェンション」の第1番ですね。

 

 

ハ長調ですから大変に弾きやすくて私もよく弾きました。

絶え間なく音が続いてゆく感じが個人的には好きです。

 

J.S.バッハ

 

9歳で母親を失い、10歳で父親を失い、お兄さんに引き取られたバッハは

お兄さんの持っている楽譜を写して音楽の勉強を始めました。そして18歳の時に

教会のオルガニストになってからも、教会にある楽譜を夜に薄暗い中で写譜して

勉強をしました。晩年それが祟って目が見えなくなり、2度の手術もしましたが、

成功せず、65歳で亡くなりました。

バッハを音楽の父とたたえる人は大変多く、バロック時代の偉大な音楽家であり、

時代を超えて今も生きている音楽であります。

 

まとめ

 

どうやらバッハはお兄さんに音楽の勉強を、教えてもらった以外には

独学で勉強したようです。 まだ調べている最中ですが、バッハが誰かから

作曲の仕方を教えてもらった、と言う話があまりないようです。

もしご存知の方がいらしたら教えてください。

その辺からして、やっぱり「音楽の父」なのですね。

子供の頃に両親を亡くしましたが彼は子供を多く残し、その中に多くの作曲家が

おりました。

 

当時としては65歳と言う年齢は、長生きをした方ではないでしょうか。

こうしていろいろな音楽家の人生を見ていますと、皆さん紆余曲折あります。

良い時もそうでない時も、いつも音楽と一緒に過ごせる幸せもあります。

精神的に落ちてしまった時にはピアノさえも演奏できなくなった作曲家もいます。

ですから音楽を楽しく聞けたり、演奏できるのは健全な証です。

みなさんは大丈夫ですよね?

 

ではまた。

メンデルスゾーン 無言歌 第6巻 第2番 嬰ヘ短調 作品67−2 「ピアノ名曲集」より

皆さんこんにちは。お元気ですか?

もう全国的に梅雨入りしましたね。

毎日お洗濯物を外に干して大丈夫か、部屋干しにするべきか、で

1日がスタートするような感じです。 でも乾燥機付の方は悩まずに梅雨を

過ごすのですね。 羨ましい。

でも、たまの晴れ間に洗濯物が乾いた時の安心感も良いものです。

 

さて今回から「ノスタルジックなピアノ曲」のシリーズを始めます。

今までに何回も耳にした曲や、どこか懐かしさを感じる曲などをお届けいたします。

 

はじめにメンデルスゾーンの「無言歌 第6巻 第2番」です。

無言歌とは歌詞のない歌のことですが、上手い表現ですね。

歌が下手くそな私には、なんとなく嬉しいです。

 

 

無言歌

 

全8巻ある「無言歌集」はそれぞれ6曲ずつの「無言歌」を収めている。

メンデルスゾーンの姉のファニー メンデルスゾーン が「無言歌」を考案したと

言われており、彼女も多数の曲を作曲している。

 

全部で48曲ある「無言歌」は曲想が優美で温かく、技巧的に難しくないことから

発表の当初から多くの人々に愛されてきた。

それぞれに表題がついているが、メンデルスゾーン が自分で付けたものは5曲だけで、

大半は楽譜出版社などが曲想からつけたようです。

 

   

子供の頃のメンデルスゾーン        姉のファニー

メンデルスゾーン

フェリックス・メンデルスゾーン は音楽家としては、珍しく裕福な家庭に育ちました。

同時期の音楽家には、ウエーバー、ショパン、リスト、シューマンなどの有名な

人たちと友人関係でいました。

そして、21歳の時に「無言歌」の最初の6曲を作りました。その後は指揮者や作曲家として

ヨーロッパ中を演奏して回りました。

38歳の時に大好きだったお姉さん(ファニー・メンデルスゾーン)が亡くなり、

大変なショックを受けその後、半年も立たないうちに他界しました。

彼はロマン派を代表する作曲家でした。

 

では次の一曲は、

 

ユーモレスク

 

ドボルザークのユーモレスクです。

 

 

ドボルザークの故郷のチェコの音楽とアメリカの黒人音楽の響きが打ち解けています。

バイオリンのソロも大変素晴らしいので聞いてみましょう。

 

 

さらに、小澤征爾さん指揮による、イツアーク・パールマンとヨーヨーマの共演が

ありましたので、是非こちらもお聞きください。

 

 

のびやかな弦楽器の音色は良いですね、またこの3人の共演は素晴らしい。

ブラボー! ですね。

この曲は「8つのユーモレスク」の中の第7番になります。

1894年の夏に作曲されました。

 

アントニン・ドボルザーク

 

 

彼は1892年から1895年までの3年間、祖国を離れアメリカのニューヨークにある

ナショナル音楽院の院長として働いていた。

その米国での数々の興味深い楽想をスケッチ帳の中に書き留めていた。こうした楽想を

主題として「新世界より」や、「弦楽4重奏曲 アメリカ」などの大作を書き上げていった。

 

1894年にドヴォルザークは家族とボヘミアで夏休みを過ごした。この休暇中にスケッチした

素材を用いてピアノのための小品集の作曲に着手しました。

譜面はドイツの楽譜出版社、ジムロック社に送られた。すぐに第7曲が大変な人気を博したのを

利用してジムロック社は、様々な楽器や合奏のための編曲版も発表した。さらに歌詞をつけて歌曲

として発表され、また合唱曲としても編曲された。

 

まとめ

 

ドヴォルザークのユーモレスクが、人気があったために色々な編曲をされた、というのは

出版社からすると「売れる楽曲」として取り扱われた、ということでしょう。

純粋音楽とはいえ、出版社として利益をもたらしたことは言うまでもありません。

しかし祖国を離れてアメリカでの生活は、どう彼には映ったのでしょうか。

言葉の違いや、初めて触れた黒人音楽(ジャズ)など、驚くことが多かったと思います。

やはり異国に旅をしたり、知らない街を訪れることは、新い刺激となるのでしょうね。

 

ではまた。

 

 

 

 

 

 

 

ショパン ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 作品11 第1楽章 「ピアノ名曲集」より

皆さんこんにちは。お元気ですか?

毎日突然の豪雨に驚いている私です。 ⚡️

 

さていよいよ「ロマンチックなピアノ曲」もこのショパンのピアノ協奏曲で

一区切りしまして、次回からはノスタルジックな名曲シリーズにいたします。

こうご期待ください。

 

このピアノ名曲シリーズにかなりの回数取り上げさせていただいています、ショパン

ですが、流石にピアノ曲といったらショパンですね。

 

ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調

 

 

この曲は1830年に完成された作品でドイツ出身のピアニスト・作曲家フリードリヒ・カルクブレンナー

に献呈されました。フリードリヒはショパンが一時、弟子入りを考えていた人だそうです。

 

初演はショパン自身のピアノ独奏により行われました。

その後もショパンは演奏会でもっぱらこの曲を演奏し、また弟子たちにも練習

させていたそうです。ショパンがこの作品を自信作だと思っていたからでしょう。

協奏曲としては処女作となります。

 

ピアノ独奏部に対してオーケストラの部分が貧弱であると批判されることがあり

カール・タウジヒが曲の構成及びピアノパートまで改革を加えています。

ショパンの自筆譜はほとんど現存していないために、ピアノ協奏曲第2番同様に

現在の楽譜は、他人によりオーケストレーションされた可能性が高いし、また

出版社が複数のオーケストレーターに書かせたとされている。

またバラキレフも管弦楽部分の編曲を行なっている。

 

北の宿から

 

先日お亡くなりになった作曲家、小林亜星さんのご冥福をお祈りいたします。

数々の歌謡曲やアニメのテーマソングなどを残されました。

なぜ突然このような話になるのかと言いますと、1975年に発表された都はるみの

「北の宿から」の旋律は、第1楽章副主題(シーソーラーシーミーファ#ーソ

ーファ#ーミ)によく似ていることから、雑誌「ショパン」(2009年1月号)で

小林亜星さんは特にショパンの協奏曲を元にして作曲したわけではないという、お話を

されています。

 

また「のだめカンタービレ」の中で野田恵がデビューコンサートで演奏し、シュトレーゼマンが

指揮するロンドン交響楽団と共演していました。

 

 

「ロマンチック ピアノ」のシリーズは以上です。いかがでしたでしょうか。

次回からは「ノスタルジックなピアノ」シリーズで行きます。

やはり曲の感じが変わりますので、お楽しみに。

 

まとめ

 

ロマンチックなピアノということは、やはり「ロマン派」のピアニストが

多かったですね。当然といえばそうですが、どのピアニストも作曲家も

ロマンチックな曲は演奏し、また作曲します。

 

 

女性はロマンチックな曲を好みますが、作曲した人は皆男性です。

女性の心をわかっていたのでしょうか、皆さん女性に大人気でした。

これからは男性が女性に向けてピアノを弾いて聞かせる時代になるかもですね。

 

ではまた。

 

 

 

 

 

 

ショパン ワルツ 第7番・ドビュッシー ( 小舟にて) 「ピアノ名曲集」より

皆さんこんにちは。

お元気ですか?

関東地方も梅雨入りしましたが、本日は快晴です。

そして今日は暦によると、一粒万倍日で、天赦日が重なる大変に良い日だそうです。

でも仏滅ですが、それを打ち消すくらい良いのだそうです。

この日にすると良いこととは、入籍、結婚式、引越し、あたらしい通帳を作る、

銀行口座を開設する、宝くじを買う、ずっとやってみたかったことをスタートするなど

たくさんあります。

 

良いことを計画するのが良さそうですね。

 

さあ本日も名曲をご紹介します。

まずはショパンのワルツ からです。

 

ワルツ  第7番 嬰ハ短調 作品64−2

 

 

このワルツを書いたのはショパンがパリに越してからのことだそうです。

デリケートな雰囲気があってまさにショパンのピアノ曲の代表的なものとなっています。

テンポは、ゆっくりと演奏する方もいらっしゃいます。

動画の方はやや早めでしょうか。個人的に大変良い演奏だと思います。

この曲はゆっくりでも早めでも、どちらでも雰囲気があって良いですね。

 

 

フレデリック・ショパン

 

ショパンが1847年に作曲したピアノ独奏のためのワルツで、生前に出版された最後の

作品の一つです。

主題にはマズルカが使用されています。

 

マズルカとは

 

マズルカとはショパンの祖国ポーランドの民族舞踊や、その形式を意味します。

3拍子を基本とし特徴的なリズムで、ポロネーズと同様にポーランドの民族的な

踊りや、その形式になります。

大勢の人たちで踊るようです。

しかしこの頃ショパンは死期が近かったので叙情的な作品になっています。

 

次の作品は、

 

小舟にて ドビュッシー

 

「小組曲」より小舟にてです。

 

 

この作品が入っていいる「小組曲」はドビュッシー作曲のピアノ連弾のための組曲です。

のちにアンリ・ビュッセルによって管弦楽曲に編曲されています。

 

 

こちらは

フルートとハープそして、透明のピアノ! すごいの見つけました。

美女3名による「小舟にて」、雰囲気が良いですね!

 

 

こちらはオーケストラ版です。

やはりどのバージョンでも皆さん、小舟にゆらゆらと揺られるように演奏していますね。

 

 

まとめ

 

「小舟にて」を作曲したドビュッシーは「水」に関係した題名の作品が多いですが、

実際は海の近くに住んでいたものの、あまり海を見たことはなかったのだそうです。

でも想像の方が勝るとして交響詩「海」を書いています。

そうゆうことってありますよね。

思い描いていた念願の場所に行ってみたら、想像していた通りか、はたまた

「えっ」っていう時もありませんか?

 

やはり本物が一番ですね。

今ではバーチャル旅行なんてのもありますが。

私は例え失望しても実際に行ってみたいです。

皆さんはいかがですか?

 

ではまた。

キラキラ星変奏曲(モーツアルト)、忘れられたワルツ (リスト) ピアノ名曲集より

皆さんこんにちは。いつもご覧くださりありがとうございます。

お元気ですか?

 

今日はいわゆる「寅の日」で開運日とされています。

トラは中国などでは金運の象徴で、1日に「千里を走る」と言われ

何1000キロも走って帰ってくるということから、今日お金を何か

良いことに使うと自分に何千倍にもなって帰ってくる、そうです。

 

ただし結婚式とかは避けた方が良いそうです。なぜなら出戻ってしまうから。

だそうです。さあ今日は何にお金を使いましょう。投資や宝くじも良いそうです。

ただし、消費や浪費はいけませよ。 う〜ん、主婦には結構難しいかも。

 

さて本日のメニューは、モーツアルトの「キラキラ星変奏曲」とリストの「忘れられたワルツ 」です。

 

キラキラ星変奏曲

 

 

皆さんご存知の「キラキラ星」ですが、さすがモーツアルト、軽やかに変奏させています。

キラキラ星といえども、かなりテクニックを要する作品となっています。そして

随所にモーツアルトの個性が現れていますね。

このように原曲を変奏させていく技巧は、作曲の基本なので私も学生の頃先生から

やるように言われて、やらなかった思い出があります。

 

 

アマデウス・モーツァルト

 

神童モーツアルトは5歳から作曲をしていました。その中でも14歳の時に

イタリアのシスティン教会で「ミゼーレ」という曲を聞いた時のエピソードが

すごいです。この曲は門外不出の曲でしたが、彼は一度聞いたこの10分くらいの

合唱曲を、全て覚えて楽譜にしました。脳科学者の茂木健一郎先生によると、この

傾向は「サヴァン症候群」ではなかったのか、と言っておられます。

 

サヴァン症候群とは、一つのことには突出した才能を見せ、一般的には不可能なことを

平気で完璧にやってしまう。けれども他のことは普通以下である。

以前「アマデウス」というアメリカ映画を私も観ましたが、確かにそんな印象は受けました。

 

さて、次の今日はリストの忘れられたワルツ です。

 

忘れられたワルツ

 

「3つの演奏会用練習曲」より

 

 

この曲は軽やかな曲ですね。弾くのは大変そうですが。

リストの晩年1881年から1884年にかけて作曲された作品です。

晩年のリストの作品の特徴である調性の希薄さはここでも感じられる。

大胆な転調、旋法の使用や増3和音の使用など、そして不協和音の多用によって

この浮遊感が作り出されている。

 

 

フランツ・リスト

 

このピアノ曲の自筆譜には1881年7月23日作曲と、残されている。

彼はこの年の7月2日にヴァイマルの家の階段から落ちて大怪我を負っている。

その療養の過程でこの作品が書かれた。 転んでもただでは起きないとは、このこと?

「忘れられたワルツ 」は第1番から第4番まであります。

4曲の中で一番演奏回数が多いのが、この第1番ですので、「忘れられたワルツ 」といえば

第1番ということになりそうです。

 

まとめ

 

モーツアルトにしてもリストにしても、どのような状態であっても作品を作り続けた。

そして私は直接ご本人に伺いたい、「なぜ、多くの作品を次々にかけるのですか?」と。

天才のお答えは、どのようなものなのでしょうか。おそらく「次々にインスピレーションが

わき起こる。」的な返答ではないであろうか、と凡人の私は推測いたします。

彼らにとって、作品を作ることは辛いことではなく、ごく自然にやってしまうこと、

なのでしょうね。好きなゲームをずっとやってしまうこのに少し似ていると思います。

 

皆さんにも言われなくても自然に、ずっとやってしまうことはありませんか?

それが、あなたの才能ですよ。それで「好きなことをやることが、成功する秘訣。」

などというわけです。辛いことは続くわけもなく、すぐにやめてしまいますが、

好きなことは、やめろと言われてもやってしまいますし、他の人から見たら、

「よく、そんなことできるわね」、などと言われたりしますが、本人は平気です。

 

さあ、あなたの才能はなんでしょうか?

 

ではまた。

ラベル「道化師の朝の歌」(鏡)・スカルラッテイ「ソナタ ニ短調」(田園)。「ピアノ名曲集」より

皆さんこんにちは。お元気ですか?

いつもご覧くださりありがとうございます。

 

このピアノ名曲集は、初め100作品をご紹介する予定でしたが、

だんだん増えてしまいました。まあいろいろな音楽を聴くのは良いことですし。

では、なんで色々聴くのが良いのか少しお話ししたいとおもいます。

これは私なりの考えですが、まず曲にはテンポが遅いものや早いものがありますね、

するとその時の人の心の状態によって、その作品がぴったりきたり、

煩く感じたりします。ですから逆にリラックスしたい時には、ゆったりとした

「この曲!」と選曲できるようになります。

 

元気を出したい時に、早めの曲を聞くのも良いですが、かえって疲れるようでしたら

とにかく好きな曲を聞くと、エネルギーが湧いてくるような感じがします。

明るい曲は前向きな気分にしてくれます。ですからお店(飲食店、服屋さん、美容室、スーパー

など)テンポのある明るい曲を流していますね。それがカフェなどでは少しテンポを落として

ゆっくりと寛げるようにしています。こういう場所では自然と耳に音が入ってきますから、意識して

聴いていないことがほとんどだと思いますが、お店側でも工夫をしているのでしょう。

 

ですから皆さんも何か、インパクトが欲しい時には定番曲を決めておいたりすると、意外と便利なこと

があります。よくアスリートが本番前に何を聴いているか、質問されていますが、全て明るい積極的な

イメージの曲です。

楽器を弾く方は、とにかく好きな曲を弾くとスッキリすると思います。

 

前置きが長くなりました、本日はラベルとスカルラッテイの作品です。

 

道化師の朝の歌

 

 

この作品は1905年に作曲されたピアノ組曲「鏡」のなかの一曲です。ラベル自身は

「私の和声法の発展の上では非常に顕著な変容を示している作品なので、これまで

私の作曲法に慣れていた音楽家たちを驚かせてしまうようなピアノ曲集になった。」

と、のちに述べている。

 

5つの小品からなるこの曲はスペイン風のリズムとメロディが印象的です。

ではラベルはオーケストレーションの天才でしたから、次にオーケストラ版を

小澤征爾さんの指揮でお聞きいただきます。

 

 

やっぱりオーケストラにすると、音に色がついて、さらに迫力が違いますね。

ところでラベルといえば、「ボレロ」が有名ですし、そう気分が最高に盛り上がります。

バレー(踊り)にもなっていますし、ここで少し私自身も気分を高揚させたいので

聞きましょうか?(押し付け?)

 

ボレロ

 

 

この映像も素晴らしいですね。始まる前の指揮者や演奏者の緊張感が伝わります。

スネアドラムをはじめから最後まで、狂うことなく正確に叩き続ける打楽器奏者や、

pp(ピアニッシモ)からfff(フォルテシモ)に徐々に強くしていく技術など、何度も

繰り返される旋律を手を替え品を替えて仕上げていくラベルの匠の技!

しかしきになるのは指揮者がタクトを振っている時に持っているのは「爪楊枝」?

 

 

ラベルは管弦楽の魔術師と言われる卓越した管弦楽法、スイスの時計職人と

称された、精密な書法が特徴です。

入念な「完璧さへの腐心」と同時に「人間的豊かさを併せ持った表現力」は

心の奥深く隠された領域に沈み込みます。

 

スカルラッテイ「ソナタ 」

 

もう一つの作品スカルラッテイ「ソナタ 」田園です。

 

 

少し手前のラベルで熱くなりましたが、それを落ち着かせるようなしっとりとした曲です。

このピアノの音色良いですね。少し前のスタンウエインのようです。

 

 

こちらは現代的な演奏と譜面が同時進行するタイプです。

1683年から1757年に活躍した、スカルラッテイですが、このような一定のリズムを

刻み軽やかに進んでゆく曲も精神的に安定して良いそうです。

譜面を見て部分的に弾けそうな気がしますね。

このようなシートミュージックの良いところはどこを、どのように弾いているのかが

わかる点です。独学には良いと思います。

 

まとめ

 

前半で少しはしゃぎましたが、それほどにボレロは素晴らしいと、いうことです。

皆さんにもお好きな曲があると思います。

いろいろなタイプの好きな曲があって当然ですし、その時に必要だったり、なんとなくだったり

して生活の中に音楽があると、人生が音楽とともに進行していきます。

ちょっと良い感じですよね。「人生は音楽とともにあり。」なんてね。

 

ではまた。

 

 

 

 

 

 

 

パガニーニの主題による狂詩曲(ラフマニノフ)・ノクターン 第5番(ショパン)「ピアノ名曲集」より

皆さんこんにちは。お元気ですか?

ニュースなどでは毎日のように、ワクチン接種の話題でもちきりですが、

皆さんの地区では、いかがでしょうか?

もう接種された方もいらっしゃるでしょうね。

そして問題はその後のオリンピックのことなど、未曾有(みぞう)のことでいっぱいです。

 

さて今日はラフマニノフ とショパンの作品をお届けいたします。

まずはラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲 作品43 第18変奏」

をお聞きいただきます。

 

パガニーニの主題による狂詩曲

 

 

皆さん、どこかで聞きになたことがあるでしょう。

やはりこれはオーケストラの方も聞きたいですね。

 

 

オーケストラ版の方は解説も入って、わかりやすいと思います。

この曲は天才バイオリニスト、パガニーニの「24の狂詩曲」の第24番を主題としています。

 

セルゲイ・ラフマニノフ

 

ロシア革命の混乱の中で母国を離れたラフマニノフは、アメリカ合衆国でピアニストとしての

生活を送るようになった。

ピアニストとしての名声を獲得する反面、演奏活動に多くの時間が割かれることになった。

そしてロシアを離れ、母国を喪失したという思いも強く、想像力の枯渇を感じることもあり

作曲になかなか取り組めなかった。

 

1931年の夏に休暇の為にスイスのルツエルン湖畔に建てた別荘で作曲を開始した。(1934年6月3日)

そして同年8月18日に仕上げられたのが、この作品です。

初演は1934年11月7日、ボルチモアでラフマニノフのピアノ独奏、ストコフスキー指揮、

フィラデルフィア管弦楽団により行われました。

のちにこの曲はミハイル・フォーキンによってバレエ化され、その時にラフマニノフは

フォーキンに「超絶技巧と引き換えに悪魔に魂を売ったと噂されたニコロ・パガニーニの

伝説とすじ立てとして利用してはどうか」という提言をしている。

 

ピアニストであったショパンやリストなどが、パガニーニの名前を口にしています。

それほど素晴らしバイオリニストだったわけです。

ここで、そのお姿(写真らしい)を見てみましょう。

 

 

少し奇妙には感じますが、かなりて手と顔が大きくて、これは本当に写真なのでしょうか。

彼の弾くバイオリンは「超絶技巧」の塊であったそうで、是非聞きたかったですね。

 

さてもう一曲お届けします。

 

ノクターン 第5番

 

ショパンのノクターン 第5番 嬰ヘ長調 作品15ー2です。

 

今回は演奏動画ではありませんが、夜想曲ですので、このような画像も良いかと思いまして、

やってみました。

だんだん年齢を重ねますと、振り返る過去が増えます。たまに私のような人間でも過ぎし日の

ことを思い出すのは、静かになった夜、一人の時です。

このように「夜想曲」を聞きながら過去を振り返ることはありませんが、まるでピアノの音が

昔を懐かしむように聞こえます。

 

フレデリック・ショパン

 

ポーランド出身のショパンはパリで他界しましたが、故郷であるポーランドでは

紙幣に肖像が使用されたり、ポーランド最大の空港の名前が、「ワルシャワ・ショパン空港」

に2001年改名されたりしています。

7歳の時に「ポロネーズト短調」を作曲して以来多くのピアノ作品を残してきたポーランドの

誇りですからね。

 

 

こちらはショパンの生家です。

彼の父はフルートとヴァイオリンを演奏できたそうで、母親もピアノにたけていたそうです。

幼い頃のショパンは母が弾くピアノを聴いて、感極まって涙を流すこともあったと言います。

初めの師匠はチェコ人の先生でしたが、あっという間に師匠を超えてしまったそうです。

わずか7歳にして公開演奏を行うようになり、神童モーツアルトやベートーベンの比較されるようになって

行ったそうです。

 

まとめ

 

戦争や内乱によって文化が停滞してしまうことがあります。

これは音楽史などをみても確かなことです。

では現在の世界はどうでしょうか。

このコロナは細菌との戦いです。文化的な生活はある意味停滞しています。

しかし人間は今まで天才や秀才、人の知恵を持って色々なことと戦って

勝利してきたからこそ、私たち人類はいまだに滅亡していないわけです。

皆さん、後もう少し耐えましょう。私などコロナをやっつけることができませんが

自分が感染しないことが、医療従事者の皆さんへの敬意と感謝の表れです。

 

ではまた。

 

リストの「即興円舞曲」、ブラームスの「愛のワルツ」。「ピアノ名曲集」よりロマンチックな曲たち

皆さんこんにちは。お元気ですか?

いよいよ6月に入り、衣替えのシーズンになりました。

コートを脱ぎ、セーターも脱ぎ、半袖になると開放的な気分になります。

できればマスクも脱ぎ捨てたい! ですよね。

暑くて汗もかくようになってきましたし、水分をとるときにいちいち取るのは面倒です。

いっそマスクに穴でも開けようかと思ったりします。

 

さあ本日のメニューは、リストとブラームスの作品です。

まずはリストの「即興円舞曲」です。

 

即興円舞曲 変イ長調 S-213

 

 

 

リストらしくもあり、とても愛らしい曲ですね。

即興ワルツとも呼ばれています。

即興曲は自由な形式で書かれた性格的小品の一種です。またはアンプロンプチュともいう。

即興的に書かれたわけではなく、即興演奏そのものでもありません。

ジャズの即興演奏とは全く違います。

 

この作品の作曲年代は定かではありません。おそらく1842年から1852年までに作曲されたものと

見られています。5分ほどの小品ですが洗練された優美な曲想に仕上がっています。

 

フランツ・リスト

 

リストは同時代に、パガニーニ、ベルリオーズ、ショパン、シューマンといった優れた

音楽家がいて、音楽的に大いに影響を受け、そして親交も深かった。

1838年にドナウ川が氾濫したときに、チャリテイー・コンサートを行い、ブタペストに

多額の災害救助金を寄付しています。

 

 

リストは多くの女性との恋愛関係を結んだことも有名です。

特にマリー・ダグー侯爵夫人。この方はのちに、ダニエル・ステルンのペンネームで

作家としても活躍しました。

この女性とリストは1835年にスイスへ逃避行の後、約10年間の同棲生活を送り、3人の

子供が生まれました。

そのうちの一人が、のちに指揮者となる、ハンス・フォン・ビューロー。そしてさらに

リヒャルト・ワーグナーの妻になるコジマがいました。

 

しかし1844年にはマリーと別れて、再びピアニストとして活躍しましたが、1847年に

演奏旅行の途中のキエフで当地の大地主であったカロリーヌ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン

侯爵夫人と恋に落ち、同棲しました。彼女とは正式な結婚を望みましたが、カトリックでは

離婚が禁止されている上に、複雑な財産相続の問題も絡み、認められませんでした。

 

この後のリストの人生については、またの機会にお話しいたします。

次の作品に参りましょう。

 

愛のワルツ 作品39−15

 

 

このワルツをかいたブラームスは意外にもウインナ・ワルツ好きで、あのワルツ王

シュトラウス二世と親しく交際するほどでした。

この曲は「ワルツ集」に納められていますが、中でも有名な楽曲がこの「愛のワルツ」と

「ブラームスの子守歌」です。

元々は連弾用ですので、こちらもどうぞお聞きください。

 

愛のワルツ 連弾

 

 

これは贅沢な連弾ですね。

お二人のピアニストが2台のグランドピアノで奏でる「愛のワルツ」。

 

ヨハネス・ブラームス

 

彼は1833年にドイツで生まれました。

父親はコントラバス奏者で、ブラームスは6歳からバイオリンを教えてもらいました。

7歳のとき、コッセルについてピアノも習いました。コッセルはブラームスの優れた

才能を見抜いて大変熱心に教えました。

10歳で演奏会に出場し、12歳の時に作曲を勉強しました。このときにバッハやベートベン

を習い、それに強く影響されました。

 

彼の生家は貧しかったので、13歳で学校を辞めダンス場などでピアノの演奏をして

働きました。17歳の時には、ハンガリーのバイオリニストであったホフマンと

友達になり、ハンガリーの音楽にも興味を持つようになりました。

20歳の時にリストにあって、リストが作曲したソナタを演奏している時に

ブラームスは居眠りをしてしまい、リストは2度とブラームスとは合わなかったそうです。

 

 

まとめ

 

毎回思うのですが、作曲家の人生は、曲だけでは語り尽くせないことが多くあります。

今回のリストとブラームスも紆余曲折ありました。

そのような中でも演奏活動や作曲活動をして行ったわけですね。

私も見習うべきことがたくさんあります。

また、リストの女性関係を、奔放というべきか、真面目と取るべきか、分かりませんが、

その時の気持ちに素直にしたがったのでしょう。男性がよくいう「言い訳」ですが。

 

ではまた。