ラフマニノフ ピアノ協奏曲 第2番とショパン「雨だれ」ピアノ名曲集よりロマンチックな曲たち

皆さんこんにちは。お元気ですか?

毎日のお天気が目まぐるしく変わって、体調管理をしっかりしないと

疲れやすくなったり致しますので、どうかお気をつけてください。

 

さて本日はラフマニノフの、ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調 作品18

より第1楽章と、

ショパンの前奏曲 第15番 変ニ長調 作品28−15 「雨だれ」を

お届けいたします。

 

ピアノ協奏曲 第2番

 

ピアノ協奏曲(コンチェルト)は長いので、全編を聞くことがなかなかありませんが、

作業をしながら聴いても良いですね。

今日は、ロマンチックな第1楽章をお届けします。

 

 

ロシアの作曲家ラフマニノフが2番目に作曲したピアノ協奏曲です。

作曲時期は1900年秋から1901年4月とされている。

彼の出世作であり、あらゆる時代を通して常に人気のあるピアノ協奏曲の一つです。

高度な演奏技術が要求される難曲でもあります。

 

セルゲイ・ラフマニノフ

 

 

この作品の初演時には批評家の酷評にあっていて、彼は鬱傾向と自信喪失に

陥り、創作不能の状態となっていた。

ロンドン・フィルハーモニック協会の招きでイギリスに渡ったラフマニノフは

ここで、ピアノ協奏曲の作曲依頼を受け創作を開始するが、再び精神衰弱に

襲われてしまう。

 

しかし知人の勧めでニコライ・ダーリ博士の催眠療法を受け始めて快方に向かい

作品を完成させることができた。

ラフマニノフはそれまでの数年間にわたるうつ病とスランプを抜け出す糸口

となった、この作品をラフマニノフの自身回復のために手を尽くしてくれた

ニコライ・ダーリー博士に献呈された。(いい話だ)!

 

さて2作品目は、皆さんよくご存知の「雨だれ」です。

 

雨だれ

 

 

この映像は良いですね。ピアニストの美しいピアノの音色と、それを見つめる観客の後ろ姿

(おそらくほとんど女性)、が一度に感じ取れます。

 

ショパンの前奏曲(プレリュード)はピアノのための作品で、24曲の前奏曲からなる

曲集と独立曲2つの計26曲です。

いずれも短かい小品です。前奏と言っても何かのための前奏ではなく、前奏曲風の作品

と言った意味です。

全ての長短調を網羅したこの24の前奏曲は1838年にマヨルカ島で完成された。

それは小説家のジョルジュ・サンドとの関係が始まって間も無くの時期で、サンド一家の

天地保養にショパン が同行した最初の機会でした。

 

フレデリック・ショパン

 

 

ショパンはこの旅行を実現するためにパリでのレッスンをいくつも断り

また、知人たちから借金をした。パリの出版家プレイエルが(演奏曲集)に

前金を支払ったのも、旅行費用を援助するためだった。

なんとしてでもサンドと一緒にいたかったのですね。

しかしマヨルカ島につくなり、ショパンの持病である肺結核が悪くなり、死の渕を

彷徨うほど悪化してしまいました。

 

ある日サンドはショパンを修道院に残して買い物に出かけますが、突然の嵐が島を遅い

彼女の帰りが夜遅くになり、一人残されたショパンは不安になりながら作曲したばかりの

この曲を弾いていました。

これは、どうやら実話であるらしいです。

 

まとめ

 

ショパンのマヨルカ島での出来事は、ロマンチックですよね。

実際は大変な「悲劇」なのですが、この曲がこのアクシデントを

別な次元へと連れて行ってくれます。

 

自分の体調が優れないにもかかわらず、しかも嵐の中で曲を書くショパンも

執念を感じます。それはショパン が尊敬していたバッハが残した

「平均律クラヴィーア曲集」に敬意を表していて、なんとしても自分も全調の曲集を

完成させたいと思っていたからです。

もちろんサンドとの生活も必要でした。それでは今回はこの辺で。

 

ではまた。

 

 

 

 

 

愛の夢 リスト、 月の光 ドビュッシー。 「ピアノ名曲集」よりロマンチックな曲たち。

皆さんこんにちは。お元気でしょうか?

気付いたら、もう5月も最終週! 早いときの流れ。

昨日小学3年生の男子に「時のたつのが早いなー、って感じることある?」

と質問しましたら、「全然思わないよ」という回答でした。

やっぱり大人になると、時間が早く感じるのでしょうね。

 

さて今日から「ロマンチックなピアノ曲たち」を第5シリーズとして始めます。

ロマンチックといえば、「ロマン派時代」が思い起こされますが、

必ずしもロマン派の作品ばかりではありません。そしてロマン派時代の作曲家でも

ロマンチックな作品だけ描いていたわけではありません。

人の気持ちが揺れ動くように、常にロマチックな気分でいられませんから。

 

では、なんと言っても「ロマンチックな曲」の代名詞の愛の夢からです。

 

リスト 愛の夢

 

 

愛の夢 第3番 変イ長調

この曲はもともと歌曲として作曲した「3つの夜想曲」という副題を持ち、特に

第3番は有名です。

数々の波乱の恋愛に生きたリストが、フライリヒラートの詩句「愛しうる限り愛せ」

という詩に曲をつけたものです。内容は人間愛の大切さを説いています。

 

 

フランツ・リスト

 

リストが若い時の肖像画ですが、かなりの美男子ですね。

そして超絶的な技巧を持つ当時最高のピアニストであった彼は「ピアノの魔術師」

と呼ばれていたそうです。なぜかというと、どんな曲でも初見で弾きこなしたというのです。

そ演奏技術の技巧と音楽性から、活躍していた時代には「指が6本あるのではないか」

という噂がまともに信じられていた。

 

6本指は誇張ですが、幼少期から指を伸ばす練習を重ね、指が長く12度の音程も軽々と

抑えることができた彼は、10度を超える和音が連続する曲を作曲している。

のちにそれを8度(オクターブ)に改訂している曲もある。

しかし、そんな彼でもショパンの「12の練習曲 作品10」だけは初見で弾きこなすことが

できなかったという。

 

その影響で彼はパリから突然姿を消し、数週間後に全曲を弾きこなしショパンを驚愕させた

ことから、ショパン が同曲を献呈したという話があった。

高い演奏技術で万人受けしたリストの演奏に、初めはショパンも「あんな風に弾いてみたい」と

好意的であったが、あまりの技術偏重に呆れた後期は否定的だったという。

 

 

さてもう一つの作品はフランスの作曲家ドビュッシーの「月の光」です。

 

月の光

 

 

「ベルガマスク組曲」より月の光。

 

曲の出始めがよく聞こえませんがご了承ください。 この曲は、

26日のスーパームーンの日に聞くべきでしたかね。 ですがこの曲の月はどう考えても

「皆既月食」ではなく、満月の光が冴え渡り、静かな夜に降り注ぐ月光ですよね。

ぜひ、次の満月の日に明かりを消してこの曲を聴いてみてください。

作曲したドビュッシーも同じように、月の光を感じていたことでしょう。

 

 

クロード・アシル・ドビュッシー

 

彼は10歳でパリ音楽院に入学した。この時の合格者はたった33名だったそうです。

もともとピアニストになるつもりでいた彼は、学内コンクールでも優秀な賞を次々と

とっていたが、次第に第2次席となって、賞が取れなくなり、ピアニストになることを

諦める決心をしたそうです。

その後ピアノ科を去り、ピアノ伴奏法のクラスに入りました。

 

まとめ

 

どんな人にも紆余曲折があるのですね。

そしてそれが人生ですよね。

皆さんにも色々なことがありますよね?

長く生きていればいるほど、結構あります。

人生100年時代を迎えて、どうか皆さんもがんばっていきましょう。

 

ではまた。

 

 

 

 

チャイコフスキーのピアノ協奏曲 第1番 変ロ短調 作品23 第1楽章 「ピアノ名曲集」より

皆さんこんにちは。お元気ですか。

昨日のスーパームーンは見られましたか?

北海道や沖縄などではお天気の関係で、よく見えたそうです。

私も近くの中学校の校門前で見ましたが、曇っていてはっきりは見えませんでした。

それに思っていたよりも、大くはなかったようですが、ご覧になった方いらっしゃいますか?

 

スマホで中継をやっていましたので、そちらからよく見えました。

月に、今私たちが住んでいる地球の影が写っているなんて、スケールの大きな話です。

地球も月も太陽も、宇宙空間にぷかぷか浮いているたくさんの星のほんの一部に過ぎない。

そう思うと、小さな悩みなど消えてしまいそうです。

 

さあ、今日は大変にドラマチックなチャイコフスキーのピアノ・コンチェルト

をお届けいたします。

 

チャイコフスキー「ピアノコンチェルト第1番」

 

 

いや〜、何度聞いても感動的な出だしですね。

この曲はチャイコフスキーが友人の、モスクワ音楽院院長のニコライ・ルビンシテインに

刺激を受けて初めて作曲したピアノ協奏曲です。

しかしルビンシテインは「この作品は陳腐で不細工であり、役に立たない代物であり、

貧弱な作品で演奏不可能であるので、私の意見にしたがって根本的に書き直すのが望ましい。」

と激しく非難された。

 

これだけ言われましたが、チャイコフスキーはこの言葉に従わず、セルゲイ・タネーエフ

への献呈を目して作曲を進め、オーケストレーションが完成した後で、ドイツ人ピアニスト

であり指揮者であったハンス・フォン・ビューローへ献呈した。

ビューローはこの作品を「独創的で高貴」と評しました。

 

結果的に自分の信念に基づいて行動したチャイコフスキーが正しかった。

ですね。

 

 

ピョートル・チャイコフスキー

 

1840年にロシアで生まれたチャイコフスキーは7歳の時に、フランス人の

女性教師にピアノを習い始めました。当初両親も特別な才能があるとは思わずに

10歳になった時、法律学校へ入れられ家族と離れて生活するようになりました。

学校では合唱隊に入り、15歳の時からピアノと作曲を正式に勉強し、いくつかの

曲を描いています。19歳で法律学校を卒業し役所の事務員をしていましたが、音楽を

どうしても続けたくて仕事をしながら音楽教室に通って作曲を勉強しました。

 

23歳の時に役所を辞め音楽院の学生になり、アントン・ルビンシュテインについて

勉強するようになりました。チャイコフスキーは内気でしたが、曲を作るときはまるで

違う人のようで、先生が教えてくれなかったようなことをしたり、先生が嫌がっているような

ことをしてみたりしたので、どうやら先生もあまり良い気持ちではなかったようです。

先生との確執、ということですね。

 

このピアノ・コンチェルトは1875年10月25日にアメリカのボストンで初演され大成功を収めました。

そしてロシア初演はルビンシュテイン指揮、タネーエフのピアノによって行われました。

その後何度も独奏用ピアノを受けもって、この協奏曲を世に知らしめる役割を果たしました。

 

まとめ

 

このチャイコフスキーの大変ドラマチックな第1楽章の次のシリーズは

「ロマンチックなピアノ曲たち」になります。

ピアノの名曲集と言っても、リラックスしやすい曲や、元気が出たり、感動したり

いろいろですが、ずーっとドラマティックな作品を聴いていると、少し疲れてきます。

次回のロマンティックな作品もお楽しみにしてください。

 

ではまた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

展覧会の絵、イスラメイ(東洋風幻想曲)、など「ピアノ名曲集」よりドラマチックな作品

みなさんこんにちは、お元気ですか。

もう5月も最終週になりました。時の経つのは早いものです。

この「ピアノ名曲集」も、はじめは100曲をご紹介する予定でしたが、

これもついでに、とかこっちも聞いてみましょう、などどやっているうちに

100曲では収まらなくなってきました。

 

100曲以下ではありませんので、ご安心ください。

さて本日は、

 

イスメライ(東洋風幻想曲)バラキレフ

組曲「展覧会の絵」よりキエフの大門 ムソルグスキー

 

の2つの作品を聴いていただきます。

1曲目のバラキレフの作品は、あまり聴いたことがないかもしれませんが、

秀逸な作品です。

 

イスメライ

 

 

ロシアの「5人組」の一人であったバラキレフによる「超難曲」です。

イスラメイ はコーカサス山脈の北でお出られる民族舞曲に基づくオリエンタルな

幻想に満ちた作品です。

非常に衝撃的な曲の出だしではありませんか?

 

バラキレフ

 

バラキレフは「ロシア5人組」のまとめ役として知られています。

彼は大学で数学を専攻していました。その後ミハイル・グリンカと知り合い

バラキレフを中心にして1862年に無料音楽学校が設立されました。

1862年にはバラキレフは帝室宮廷礼拝堂の監督と帝国音楽教会の指揮者に

任命されました。

 

指揮者やロシア音楽のまとめ役としての発言力から新たな運動の発起人という役割を得ました。

「5人組」ばかりではなく、チャイコフスキーもいくつかの標題音楽や「マンフレッド交響曲」

の作曲にバラキレフの助言や批評を仰いでいる。

なかなか変わった経歴の方ですね。

 

 

さてもう一つの作品は、

 

展覧会の絵

 

ムソルグスキーの「展覧会の絵」はムソルグスキーの親友の建築家の

遺作展をモチーフにしたものです。その作品の中の「キエフの大門」は

終わりの曲です。

 

キエフの大門

 

 

この曲を含む「展覧会の絵」は、ムソルグスキーの友人であったハルトマンの遺作展を歩きながら

そこで見た10枚の絵の印象を音楽に仕立てたものです。

ロシアに留まらずフランス、ローマ、ポーランドなど様々な国の風物が描かれている。

ただ無秩序に作品が並ぶのではなく、「プロムナード」という短い前奏曲あるいは

間奏曲が5回繰り返して挿入されている。

 

 

ムソルグスキー

 

彼はヴィクトル・ハルトマンという建築家であり画家でもある人物と1870年頃出会い

交友を結ぶ。しかし1873年8月4日にハルトマンは動脈瘤が原因で急死してしまった。

ムソルグスキーの落胆ぶりは大きく、残された手紙などによると、ハルトマンの体の異常

に気づきながら友人としてなすべきことをしていなかったのではないかと、自責の念に

駆られている様子がわかる。

 

展覧会から半年後の1874年7月4日、ムソルグスキーは「展覧会の絵」を完成させた。

作業の遅いムソルグスキーにしては珍しく2〜3週間足らずで一挙に作曲されたものと

推測されている。

しかしこの作品「展覧会の絵」はムソルグスキーの生前には一度も演奏されないままであった。

 

1881年3月28日、ムソルグスキーはアルコール依存症と生活苦から衰弱してこの世をさる。

上記の肖像画は他界する三週間ほど前、イリヤ・レービンの筆によるものである。

 

ではここでオーケストラ版も聴いてみましょう。

 

 

このオーケストラ版はラベルによる編曲で、セルジュ・チェリビダッケという

名指揮者の珍しいものです。どうしてかというと、チェリビダッケは録音を残さないことで

有名な指揮者でした。

 

まとめ

 

ロシアの作曲家たちの人生って、なんかドラマチックですよね。

特に友人思いのムソルグスキーが普段遅い筆を、一気に書いてしまうなんて。

かなりのインパクトを展覧会の絵で受けたのでしょうね。

 

そして名指揮者チェリビダッケによる「キエフの大門」。いかがでしたか?

私は学生の頃大学の先生が授業の時に、今来日しているチェリビダッケの指揮を

ぜひ見なさい、というので、特別に練習風景を見させていただけたのです。

これは学生生活で1番の思い出かもしれません。

 

讀賣交響楽団でしたが、驚きました。指揮者の指示でこんなにもオケの音色までも

変わってしまうのか、ということです。

もう他界されましたが、やはり映像や音が残っているのは嬉しいです。

ご本人は「音楽はその時、その場でのもの」だから録音を残さない主義だったそうです。

 

そして彼はスコアーもみず、(全部暗記している)立ったまま長時間、楽団員に指示を出す。

でも練習段階で全てわかっているよね?という雰囲気です。

現場の臨場感は感じられませんが、レジェンドがこうして拝見できるのは嬉しいです。

 

昔の思い出が蘇りましたが、あの時の感動は今でも鮮明に覚えています。

 

ではまた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ベートーベンのピアノソナタ ショパンのスケルツオ 「ピアノ名曲集」よりドラマチックな曲

みなさんこんにちは。

雨が続いている地域の方々は、引き続き警戒をしなくてはなりませんね。

 

大雨と言うと、我が家もかれこれ15年間くらい雨漏りに、悩まされました。

ですから雨が降ると、バケツやタライ、ビニールシートやペット用の敷物などを

並べて対応していました。

 

ですから雨が続くと、なんとなくいやーな気持ちになったものです。

 

さて、今日の作品はベートーベンの有名なピアノソナタ「テンペスト」と

ショパンの「スケルツオ」をご紹介いたします。

まずはベートーベンのピアノ・ソナタ 第17番 ニ短調 作品31ー2 

「テンペスト」の第1楽章をどうぞ。

 

テンペスト

 

 

「テンペスト」とはシェークスピアの作品の名前ですが、当時のベートーベンの弟子の

一人であったアントン・シンドラーがこの曲と「熱情」の解釈について尋ねたときに

ベートーベンが「シェイクスピアのテンペストを読め」と言ったと言うことに由来している。

 

では「テンペスト」の意味は、と言うと「あらし」のことだそうです。

1612年頃のシェークスピア最後の作品と言われています。

ロマンス劇であったそうです。

2012年のロンドン・オリンピックの開会式のエキジビジョンでは他のシェークスピア作品

とともに演出上の大きな役割を果たしたそうです。

 

 

作品を描いているときにはもう、かなり難聴が進んでいたようです。

「あらし」のようであり苦悩した彼の心情も感じられます。

 

さてもう一つの作品は、

ショパンのスケルツォ 第3番 嬰ハ短調 作品39 です。

 

スケルツオ

 

 

スケルツォとは「冗談」の意味ですが、冗談には聞こえません。

かなり難易度も高く、やはりドラマチックな作品と言えるでしょう。

この作品は彼が29歳頃の作品です。

そしてこのピアノのための4曲のスケルツォの第3番目がこの曲になります。

 

 

いつものお写真ではなく、若き日のショパンの肖像画です。

 

やはり繊細な方だったのでしょうね。

線の細い印象がいたします。

 

まとめ

 

今日の2作品はいかがでしたでしょうか。

憂鬱な雨を服飛ばすようなドラマチックな作品でした。

 

話が元に戻りますが、我が家の雨漏りは業者さんに修理していただき

今では雨風を防げるようになりました。

雨を心配しなくて良い生活は素晴らしいです。

でも今思い出すと、よくタライをいくつも並べて、いっぱいに雨水が

たまると捨てて、また設置するなど、よくやりましたね。

 

皆様のお家は大丈夫ですか?

ではまた。

 

 

 

 

 

 

 

ピアノ名曲集より「ショパンの(葬送行進曲)」「ラフマニノフの前奏曲」

こんにちは。お元気ですか?

5月も半ばを過ぎ、時のすぎる速さを感じます。

 

それにしても昨日の、ガッキーと星野源さんの結婚発表には驚きました。

久しぶりに嬉しいことで、喜んだ気がします。

最近は、何か不安な話題の方が多いですからね。

おめでとうございます。お幸せに!

 

さて今日は、ショパンの「葬送行進曲」より第3楽章です。

 

葬送行進曲

 

 

ショパンが1827年に作曲したこの作品の出版は、1855年です。

出だしから特徴があり、しばしばBGMとしてドラマや映画などに使用されます。

 

1933年の5月ドイツのフランクフルトにおいて、ユダヤ人の著作物を焼く

梵書の祭典がナチスによって実施された際に、ショパンの葬送行進曲が演奏され

ていたそうです。本は火の中に投げ込まれ、焼かれた本の中には、ショパンと交友の

あった、あのハインリヒ・ハイネの著作もあったという。

 

次の作品はラフマニノフの、前奏曲 嬰ハ短調 作品3−2です。

 

ラフマニノフ 「鐘」

 

 

ラフマニノフの作品はどれもドラマチックな感じですね。

彼がピアノの名手であったことは、ピアノの技巧を最大限まで高められた要因の

一つですね。そして大柄なロシア人のピアノ曲は日本人の女性にはかなり厳しい

面があります。

 

ラフマニノフのピアノ

 

 

1891年、彼は18歳でモスクワ音楽院ピアノ科を大金メダルを得て卒業しました。

金メダルは通例、首席卒業者に与えられたが、当時スクリャービンもまた優秀で

あったことから、金メダルを分け合った。

首席はラフマニノフ、次席(小金メダル)がスクリャービンでありました。

 

その後1892年に同院作曲家を卒業。卒業制作として歌劇「アレコ」を、わずか

数日のうちに書き上げ、金メダルを授けられた。

同年10月8日にモスクワ電気博覧会で「前奏曲嬰ハ短調」を初演した。

この曲は熱狂的な人気を獲得しラフマニノフの代名詞的な存在になった。

 

まとめ

 

今日の2作品は少し寂しさも感じられる作品でした。

作曲者は色々な曲をたくさん書いていますから、人としてもたくさんの

苦労もあったのでしょう。

それを曲のできるのが、すごいですね。

 

人生には山あり谷ありで、平坦な人生はないのです。

ですから、昨日のガッキーの結婚については「がんばってね」、と

いうしかありません。他人の苦労はその人にしか理解できないことも

ありますのでね。

 

歳をとると、このような「老婆心」が出てきます。

でも、乗り越えてください。楽しいことばかりでは成長できませんから。

 

ではまた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バッハの平均律より、バルトークのピアノ協奏曲。「ピアノ名曲集」よりドラマティックな曲たち。

みなさんこんにちは、お元気ですか?

今日は雨です。もう晴れ間はしばらく見られそうもないような気がします。

 

私の家の周りには田んぼが多く、毎年ゴールデンウィーク中に田植えをする様子を

毎年見てきましたが、今年は少し遅いような気がします。

皆さんのご近所の田植え状況はいかがでしょうか。

 

さて今日はバッハとバルトークの2作品です。

お二人が活躍した時代はかなり離れていますが、バッハの作品は常に現代風に

アレンジされてきました。やはり普遍的な作品が多いですね。

バルトークは20世紀ハンガリーを代表する作曲家です。

この作品は絶筆となりました。

 

平均律クラヴィーア曲集 第1番 ハ長調

BWV846

 

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ヨハン・セバスチャン・バッハが作曲した鍵盤楽器のための作品集からです。

1巻と2巻があって、それぞれ24の調による前奏曲とフーガで構成されています。

ですから初めが前奏曲で後からフーガが演奏されます。

 

これは自筆の楽譜の「表紙」だそうですが、ペン書きで

美しいですね。

24の調で書かれていますから、初めの方はシャープやフラットが少なくて

弾きやすいと思います。やはり#️⃣や♭が多いと譜面を見たときに、少し考えますよね。

それは昔も変わらなかったようで、一時期全ての曲をハ長調にしてしまうピアノが

あったそうです。私も写真で見たことがあります。ピアノの両脇から棒のようなものを

付けるのですが。

 

でも今そのようなピアノはありません。やはりそれぞれの調が持つ音の美しさが

ありますので、廃れてしまったのでしょうね。

でもあったら弾いてみたいですね。

 

次はバルトークです。

 

ピアノ協奏曲 第3番 第1楽章

 

 

バルトークは亡命先のアメリがでこの曲を書きました。

亡命先でもルーマニアや南スラブの民族音楽の研究に取り組んでいて

アメリカの生活にも馴染めないこともあり、彼の楽譜を出版していた

出版社からのピアノ協奏曲を勧める手紙ももらっていたが、なかなか

着手できずにいました。

 

彼の民族性の取り組みは半端ないです。

 

 

こちらがバルトーク氏です。

 

絶筆と書いたのは、この作品の頃より白血病の末期を迎えていて

妻でピアニストのディッタに誕生日のプレゼントとして着手された作品であるからです。

スケッチを完成させた夏頃から急速に健康が悪化した彼は、家族や

知人のハンガリー人作曲家シェルイらに手伝ってもらい病床で必死に

オーケストレーション作業を続けていたが、もう少しというところで

病院に担ぎ込まれて中断し4日後に他界しました。

 

そのため未完成の部分(17小節位)シェルイが補作することになった。

 

まとめ

 

バッハは暗い教会の楽譜を写して目を患い、晩年には視力を失ってしてしまいた。

バルトークも病気の中、作品を仕上げるという命がけの作業をしていました。

皆さん本当に命を注いでいたのですね。

もちろん現代においても、私たちは命がけで生きていますよ。

特にこの2年くらいの間に、そう感じることがありますね。

 

常に私たちは命を削ってまでも守らなくてはいけないことがある。

例えば女性なら、出産や子育てなど、結構しんどいですよね。

これに仕事が加わると「私命がけです。」と叫びたいこともあります。

他の方は「余裕で生きてます。」みたいに思えてしまいますが、

そんなことは意外と少ないですよ。

 

愚痴の一つも出そうですが、私の主観では

「人生の多くの悩みは疲労と戦うこと」から来る。

この疲労には身体的、精神的、金銭的など「欠乏感」が多いのでは

ないかと思いますが、皆さんはいかがでしょうか。

 

ではまた。

 

 

 

 

ドヴォルザークのスラヴ舞曲、スクリャービン のエチュード ピアノ名曲集より

みなさんこんにちは。

梅雨入りした地方もある様ですね。

爽やかな春はそろそろ終わり、鬱陶しい季節に入るのか、と思うと

春は短いなと思います。

 

さて本日はドヴォルザークとスクリャービン の作品をお届けいたします。

まずはドヴォルザークから。

 

スラヴ舞曲 第1集

 

 

スラヴ舞曲 第1集 作品46 第2番 ホ短調です。

連弾曲ですね。連弾曲はモーツアルトやシューベルトの時代に社交の場の

楽しみとして女性たちの間で大流行し、一時下火になったものの

ブラームスの「ハンガリー舞曲集」は倒れかかった出版社が持ち直すほどの

大ヒットとなりドボルザークにも同様の期待がかかったというわけです。

 

アントニン・ドボルザーク

 

ドヴォルザーク は1841年にチェコスロバキアで生まれました。

父親は、宿屋と肉屋をしていましたが、ドボルザークは小さい時から

小学校の先生からヴァイオリンを教えてもらい、とても上手に弾いて

お客さんたちに喜ばれていました。

 

14歳の時お父さんはドボルザークに自分の仕事を継がせるためにドイツ語を

習わせようと思い近くの街でドイツ語を教えているリーマンのところへ行きました。

リーマンはドイツ語ばかりではなく、オルガニストとしても活躍していました。

ドボルザークはビオラ、オルガン、ピアノ、作曲も教えてもらい、かえってドイツ語より

音楽の勉強の方が楽しくてたまりませんでした。

 

しかし父親は彼が音楽家になるのには大反対でした。ですがリーマンはドボルザークには

素晴らしい音楽の才能があることを知っていましたので、「ドボルザークに音楽の勉強を

させてあげるように」と父親に頼み込みました。それで父親はやっと音楽家になることを許し

ドボルザークはプラーハに行って正式に音楽の勉強をすることができました。

 

よかったですね、というよりやはり運命的に廻り合わされたのでしょう。

リーマン先生が父親を説得しなければ彼は音楽家になれなかったわけですから。

 

次の作品は「12のエチュード」より、作品8−12、スクラリャービンです。

 

スクリャービン のエチュード

 

エチュード作品8−12

 

 

20世紀最高のピアニストのウラデイミール・ホロヴィッツの演奏です。

改めて見ますと、なんという手の大きさ、そして目にも止まらぬ速さ、迫力

やはり最高のピアニストですね。

指捌きの速さや難曲におけるミスタッチの少なさであれば、現代ではホロビッツ以上の

技巧を持つピアニストは少なくない。しかしながらホロビッツの音は独特であった、と

皆証言しています。 確かにそうですね。

 

 

スクリャービン は1900年頃(この写真は1900年に撮影された)から

ニーチェ哲学に心酔し、とりわけ超人思想に共鳴していたそうです。

その後も神智学にも傾倒したり、作曲にも影響を受けたようです。

確かにこのエチュードも神がかっているという雰囲気ですね。

 

まとめ

 

今日の2つの作品はいかがでしたでしょうか。

個人的には、ホロビッツの演奏が拝見できたことは嬉しいと共に

驚きです。 演奏後の去り方も意外に感じました。

「あっさりと」立ち去る、みたいな。

「弾いている時が全て」なのでしょう。

 

そういうピアニスト昔は結構いらっしゃいました。

リヒテルさんとか、出てきていきなり弾く、など、個性が

凄かったですね。 今のピアニストの方は皆さんとても礼儀正しく

演奏の前後もきちんとしてますね。

 

おそらく小さい頃より、コンクールにたくさん出場されてきたために

そのことは厳しくしつけられてきたのではないでしょうか。

 

ではまた。

 

 

ショパンの「軍隊」ポロネーズ、ピアノ・ソナタ「熱情」 ベートーベン。「ピアノ名曲集」より

皆さん、こんにちは。 お元気ですか?

おうち時間をどの様にお過ごしでしょうか。

私はもともと出不精ですので、以前とあまり差がないのですが、流石に

「何処かへ出かけて、リフレッシュしたい。」と感じます。

 

先日古い友人から、今週の土曜日の午後2時から、新国立劇場での(無観客)

バレエ「コッペリア」が youtube で無料配信されるとのことです。

そうですよね、なかなか劇場へ足を運ぶことも躊躇してしまいますから。

スマホでもみられると思いすが、できれば大画面でみたいですね。

 

さて本日のメニューは、ショパンの「軍隊」ポロネーズと

ベートーベンのピアノソナタ「熱情」をお届けいたします。

まずはショパンのポロネーズ 第3番 「軍隊」です。

 

ポロネーズ 第3番 「軍隊」

 

 

ポロネーズ 第3番 イ長調 作品40−1 は

ショパンが1838年に作曲したポロネーズで、「軍隊ポロネーズ」の通称で

親しまれています。歯切れの良い、気持ちの良いすっきりとした曲ですね。

 

ポロネーズとは

 

このポロネーズの意味は「ポーランド風」の意味だそうです。

日本的をフランス語で言うと「ジャポネーゼ」ですかしら。

ボローニャ風のパスタは「ボロネーゼ」ですよね。

少し話が脇にそれましたが、そんな感じです。

 

そしてポロネーズのリズムもいくつかあるそうですが、

曲中にそのリズムを使用しています。

ショパンの作品の中でも比較的、弾きやすい方ではないでしょうか。

是非皆さんも弾いてみると、楽しいし気分が良いですよ。

 

次の1曲は、ベートーベンのピアノソナタ 第23番 ヘ短調 作品57

「熱情」の第3楽章をお届けいたします。

 

ピアノ・ソナタ「熱情」

 

 

ベートーヴェンはピアノソナタの名作をたくさん残していますが、

その中でもこの熱情「アパショナータ」は通称ですが、大変に有名ですね。

そして彼の中期の最高傑作の一つであります。

音大のピアノ科の学生さんは皆さん、取り組んだ曲の一つでしょう。

 

ベートーベンの難聴

 

この作品の開始時期は1804年頃とされている。

彼の難聴は悪化の一途を辿っており、その絶望から1802年にはついに

「ハイリゲンシュタットの遺言」を書くに至った、ということで、

難聴の中での名作の数々、やはり天才というしかありませんね。

 

「熱情」という副題は1838年にハンブルグの出版商クランツがピアノ連弾用

の編曲版の出版に際してつけたものであるそうです。そして

ベートーベン自身もこの曲の出来に満足していたそうです。

 

まとめ

 

 

本日の2作品はどちらも有名で、必ずどこかで聴いたことがあると思います。

弾いたことがある方も多いと思います。

それぞれの作曲者のエピソードを知ると、作品に対して愛着が沸きますね。

偉大な作曲家も私たちと同じ人間です。 故郷を思ったり、自分の将来を案じたりと

苦悩や絶望の中にあっても、名作を作り出すところが私たちとは違うのでしょう。

 

不朽の名作を多く残した天才音楽家の方たちの人生は、どれもドラマチックです。

ですが、全ての方の人生は、まるで映画や小説の様なのですよね。

そして全く同じ人生を歩んだ人もいません。皆さんの人生は一つの名作です。

それとともに音楽が流れている、そんなイメージが私にはあります。

日々の毎日は単調で地味に感じますが、実はこれがもう私小説なのです。

 

ではまた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ピアノ名曲集より ドラマチックな名作 「皇帝」ベートーベン、 ピアノ協奏曲 グリーグ

みなさんこんにちは。

関東地方はあいにくのお天気です。

ですが、寒くもなく暑くもない、この季節が私は一番好きです。

ストーブもエアコンも必要ないですから。

 

さて前回より目が覚める様な曲を、ご紹介しています。

本日も2作品ともピアノ・コンチェルト(協奏曲)です。

全曲ではなく、楽章でのご案内です。

もしもっと聞きたくなりましたら、ぜひ全曲を聴いてみてください。

 

ではまず、ベートーベンのピアノ協奏曲「皇帝」からです。

 

ベートーベン ピアノ協奏曲「皇帝」

 

「皇帝」より第3楽章をどうぞ。

 

 

映像は古都、京都の様ですが、この作品の背景にあるのはヨーロッパにおける

ナポレオンのウイーン占領下で窮乏生活に萎えながら書き上げられた作品であることです。

やっぱり、ここでもフジ子さんの人生と何か重なる気がして、彼女の演奏が一層

深さをましている様です。

 

私個人としては冒頭の部分が本当にベートーベンっぽくて好きです。

そして私たちがベートーベンに求めるものとは何なんだろうと、

考えてしまいます。

 

 

 

では次のピアノ協奏曲は、グリーグです。

 

ピアノ協奏曲 イ短調 作品16

 

第1楽章をお聞きください。

 

 

どこかでお聞きになったことがあると思います。

非常に印象的な始まり方、そしてピアノと合わせづらい出だし。

指揮者の表情やピアニストの手の動きなどがみられて、やはり映像は良いですね。

 

 

グリーグ

 

エドヴァルド・ハーゲルップ・グリーグは

ノルウエーの作曲家です。 「北欧のショパン」と言われもするそうです。

民族色を感じさせる作曲家ですね。

この曲が唯一の協奏曲で1868年彼が25歳のときの作品です。

と言ってもこの曲に何度も改訂をしていて400箇所以上の変更点があるそうです。

ですので現在演奏されているものは晩年に改訂されたものになっています。

 

彼の代表作には、もう一つ「ペールギュント」があります。

こちらは組曲ですが親しみやすく、そしてどれも名作で毎日でも聞きたくなる様な

曲ばかりで構成されています。

今回は1つ「朝の気分」をお届けいたします。

 

 

朝の気分

 

こんな曲で朝を迎えられたら毎日最高な朝になりそうです。

 

 

こちらがグリーグです。少しアインシュタイン博士みたいですね。

「ペールギュント」はイプセンの戯曲のために作曲した劇付随音楽です。

また彼自身の編曲で何曲かピアノ独創曲やピアノ伴奏の歌曲に編曲されています。

 

 

こちらがピアノ編曲版です。

 

まとめ

 

今日はピアノ協奏曲2作品でしたが、どちらも勇ましいと言いますか、

やはりドラマを感じますね。

「ペール・ギュント」は学校の鑑賞の授業でも取り上げられることが多いと

思います。気持ちにスッと入っていく音楽ですね。

 

特に「朝の気分」は気持ちがモヤモヤしているときに聴くと、かなり気分が

変わりそうですし、爽やかな1日にはこの曲がよく似合う気がします。

明日の朝からぜひお試しください。

 

ではまた。