チャイコフスキーのピアノ協奏曲 第1番 変ロ短調 作品23 第1楽章 「ピアノ名曲集」より

皆さんこんにちは。お元気ですか。

昨日のスーパームーンは見られましたか?

北海道や沖縄などではお天気の関係で、よく見えたそうです。

私も近くの中学校の校門前で見ましたが、曇っていてはっきりは見えませんでした。

それに思っていたよりも、大くはなかったようですが、ご覧になった方いらっしゃいますか?

 

スマホで中継をやっていましたので、そちらからよく見えました。

月に、今私たちが住んでいる地球の影が写っているなんて、スケールの大きな話です。

地球も月も太陽も、宇宙空間にぷかぷか浮いているたくさんの星のほんの一部に過ぎない。

そう思うと、小さな悩みなど消えてしまいそうです。

 

さあ、今日は大変にドラマチックなチャイコフスキーのピアノ・コンチェルト

をお届けいたします。

 

チャイコフスキー「ピアノコンチェルト第1番」

 

 

いや〜、何度聞いても感動的な出だしですね。

この曲はチャイコフスキーが友人の、モスクワ音楽院院長のニコライ・ルビンシテインに

刺激を受けて初めて作曲したピアノ協奏曲です。

しかしルビンシテインは「この作品は陳腐で不細工であり、役に立たない代物であり、

貧弱な作品で演奏不可能であるので、私の意見にしたがって根本的に書き直すのが望ましい。」

と激しく非難された。

 

これだけ言われましたが、チャイコフスキーはこの言葉に従わず、セルゲイ・タネーエフ

への献呈を目して作曲を進め、オーケストレーションが完成した後で、ドイツ人ピアニスト

であり指揮者であったハンス・フォン・ビューローへ献呈した。

ビューローはこの作品を「独創的で高貴」と評しました。

 

結果的に自分の信念に基づいて行動したチャイコフスキーが正しかった。

ですね。

 

 

ピョートル・チャイコフスキー

 

1840年にロシアで生まれたチャイコフスキーは7歳の時に、フランス人の

女性教師にピアノを習い始めました。当初両親も特別な才能があるとは思わずに

10歳になった時、法律学校へ入れられ家族と離れて生活するようになりました。

学校では合唱隊に入り、15歳の時からピアノと作曲を正式に勉強し、いくつかの

曲を描いています。19歳で法律学校を卒業し役所の事務員をしていましたが、音楽を

どうしても続けたくて仕事をしながら音楽教室に通って作曲を勉強しました。

 

23歳の時に役所を辞め音楽院の学生になり、アントン・ルビンシュテインについて

勉強するようになりました。チャイコフスキーは内気でしたが、曲を作るときはまるで

違う人のようで、先生が教えてくれなかったようなことをしたり、先生が嫌がっているような

ことをしてみたりしたので、どうやら先生もあまり良い気持ちではなかったようです。

先生との確執、ということですね。

 

このピアノ・コンチェルトは1875年10月25日にアメリカのボストンで初演され大成功を収めました。

そしてロシア初演はルビンシュテイン指揮、タネーエフのピアノによって行われました。

その後何度も独奏用ピアノを受けもって、この協奏曲を世に知らしめる役割を果たしました。

 

まとめ

 

このチャイコフスキーの大変ドラマチックな第1楽章の次のシリーズは

「ロマンチックなピアノ曲たち」になります。

ピアノの名曲集と言っても、リラックスしやすい曲や、元気が出たり、感動したり

いろいろですが、ずーっとドラマティックな作品を聴いていると、少し疲れてきます。

次回のロマンティックな作品もお楽しみにしてください。

 

ではまた。