「モーツアルト その天才、手紙、妻、死」 豊田 泰著 よりモーツアルトについて

こんにちは、突然ですが、「モーツアルトはお好きですか?」

 

お好きな方も多いでしょうし、何曲かは聞いたことがある、とか

原曲は知らないけれど、ポップにアレンジされたものは好き、などと

いろいろな方がいらっしゃると思います。

 

でも「天才」であった。というのはよく聞く話ですし、彼の音楽を

聞くと「子供の頭が良くなる」などと、都市伝説のような、本当のような話

もあります。

 

そんな天才モーツアルトについての本を読みながら、お話ししたいと思います。

天才モーツアルト

 

モーツアルトには謎が多く、アメリカ映画の「アマデウス」を見た時も

私は驚きを隠せませんでした。

 

モーツアルトは1791年12月5日の月曜日、午前0時55分に

35歳10ヶ月の生涯を閉じ、粗末な3等葬儀で郊外に運ばれ、他の遺体とともに

同じ墓穴に投げ込まれた。

妻のコンスタンツェは憔悴して伏していたし、友人たちも悪天候のため引き返し

どこに埋葬されたか今もってわからない。

 

いきなりですが、天才は長生きできないのでしょうか?

当時の医学では、長く生きれずに残念としか言えません。

ですがその後のプラハでの追悼ミサは盛大で多くの音楽家、一般市民4000人も参列したそうです。

 

モーツアルトが真の天才と言われるのは、とどめなく湧き上がる発想を

苦もなく形にする能力を持ち合わせた、ことであろう。

彼は、気まぐれて、自制心がなく、じっとしていられない言動そのものに現れており、

旅行好き、引越し好き、ダンス好き、おしゃれ好き、ふざけ好き、いたずら好き、

はしゃぎ好き、女好き、と性格的には混沌としていた。

しかし音楽においてのみ、何人も及び難い作品を溢れるように生み出していった。

 

いつもふざけているこの人物も、クラヴィーア(鍵盤楽器)の前に座るとたちまち全く違った

ずっと高尚な人物となるように見えたそうです。

音楽家であった彼は、風景や美術には関心がなかったそうです。

 

彼の耳は非常に敏感であり、好きではないトランペットの音を聞かされて、

失神しそうになった。また間違った音、耳障りな音を聞いただけで涙が出てくるほどでした。

 

この辺りは少し病的な感じを私はもってしまいます。

最近の研究では彼は「サバン症候群」という脳の病気であったと思われる。

 

父レオポルド

 

モーツアルトのお父さんであった、レオオルドは、彼に教育を教え、もちろん音楽も教えました。

3歳より音楽が遊びであり学問であった、天才少年モーツアルトも、やがて大人へとなっていきます。

 

息子よ!お前がやることなすこと全て、すぐかっかとし、またせっかちです。

お前は幼い頃や少年時代とは、今や性格が全く変わってしまいました。幼児の時も少年になってからも

お前は子供っぽいというよりもずっと生真面目だったし、クラヴィーアの前に座ったり、

そうでなくても何か弾く必要があるときには、誰もちょっとした冗談もお前にいうことはできなかった

のです。 でも今お前は、私が思うに、あまりに性急

に最初の挑発に乗ってしまって、戯けた調子で誰にでも返事をしてしまうようだ。

 

これは父、レオポルドが息子モーツアルトの言動を心配して書いた手紙です。

几帳面で無駄嫌いのレオポルドと遊び好きの息子の様子が伺えますね。

しかしこれも、父の手綱が切れたために、彼の天真爛漫な人間性が現れてきたのではないでしょうか。

その上

息子はあまりに人を信じ易く、騙され易い。才能は半分でも良いが、灰の世渡り術を望みたい。

と、今の親と同じように、「もう少し節度をもって、まともになってほしい」という父レオポルドの

気持ちが伝わってきます。

 

旅行

 

旅好きのモーツアルトは、17回の旅行をしています。当時の旅行は馬車による困難な

旅でありました。 その都度休暇願いを出し、父から金銭についてくどいほどの注意を受けますが、

レオポルドは再三の休暇願いを出し、ついには親子共々解雇される派目になります。

 

再就職

 

1779年、就職活動に失敗したモーツアルトは、ザルツブルグに帰郷し

宮廷音楽家として復職する。しかし間もなく当時のコロレード大司教は、自由を求める

モーツアルトを追放した。

その後ウィーンに移住した。ドイツ最大の中心地で音楽も盛んだったが、ここでも

音楽家の生計は貴族の保護や援助なしには成立しなかった。

 

しかしモーツアルトの目指していたものは、音楽や音楽家の独立であった。

当時は宗教や宮廷の従属物と見る大司教と、音楽至上主義のモーツアルトがぶつかり合ったのです。

やがて、彼の浪費は「貧困の中でも夢中になる」ことのようでした。

 

特に赤い服が好きで、値段など気にせず、なんでも手に入れたくなった。

そして贅沢は貧困と同居してゆく。

 

ギャンブル

 

音楽会の収入は激減し、妻の療養費も多額を要した。他方彼はギャンブルで

すってしまったのだという説もある。

確かに彼は、賭けトランプや、玉突きが好きで、遺産台帳にも

「緑の玉突き台や、ボールの記載があり、賭博癖の親友もいたらしい。

 

このギャンブル説では、モーツアルトの収支を計算すると、当時の彼の平均収入は

3500グルデン(この時代の音楽家の年収は、1500から4000グルデン)で

結婚生活当時の支出の平均額は、年間およそ2000グルデンであるから、

賭博で浪費したとしか考えられない、としている。

 

当時、賭け事は流行していて、貴族は熱中し莫大なお金をつぎ込んで、

即金で支払うのが名誉とされていた。

彼には貴族の友人も多く、性格的にも賭博にのめり込む必然性があったのかもしれない。

 

今日の締めの一言

 

ショーペンハウアーは言う、

「利口な人は、利口である限り、また利口である間は、天才的でないであろう。

天才的な人は、彼が天才的である限り、また天才である間は、利口ではにであろう。」

 

続きます。次回はモーツアルトの手紙についてです。

 

ではまた。