モーツアルトの妻 コンスタンツェ 彼女は悪妻だったのか 

こんにちは。

もう暑い日は過ぎて、あとはだんだんに寒くなっていくのですね。

寒くなると、なんとなく塞ぎ込みそうになりませんか?

気候は人の気持ちに影響を与えます。

家では陽気に過ごしましょう。

 

さて今日は、「モーツアルトの妻であった、コンスタンツェは本当に悪妻だったのか」

と言うことについて、本を読み解いていきます。

コンスタンツェ

 

天才モーツアルトの妻であったコンスタンツェは、モーツアルトがかつて

歌唱法を指導していた、ヴェーバー夫人の三女である。ヴェーバー夫人は

俳優と結婚したが未亡人となり、3人の娘と一緒にウイーンで下宿屋を始めた。

そこに引っ越してきたのが、モーツアルトである。

 

モーツアルトの父レオポルドは、息子の「女を見る目のなさを嘆き」手紙を送っている。

モーツアルトも、自分の結婚に関してなんとかやっていけると言う内容の手紙を送っている。

しかし、コンスタンツェは、手紙をほとんど代筆してもらっていたので、モーツアルトの手紙さえ

あまり理解できないようでした。

 

しかし1782年の夏、モーツアルトは父親や姉の反対を押し切って結婚した。

彼は26歳、彼女は20歳だった。

結婚式には、父レオポルドや姉のナンネルは参加せず、結婚後にも

モーツアルトは姉に会うことはなかった。

 

新婚生活

 

初めの5~6年ほどは、2人の生活は順調で満ち足りていた。

1784年には予約演奏会に174名を数え、収入も多く、モーツアルトは多忙を極めた。

翌年の2月、レオポールドはウイーンを訪れ、息子の生活ぶりを姉のナンネルに知らせている。

 

彼の住まいは、必要な家具が全部揃っている非常に立派な家だ。

家賃も払っているし、予約演奏会も素晴らしいものであった。

翌土曜日の晩、ヨーゼフ・ハイドンさんが会いにきてくれ、

「神に誓って、御子息は、私が個人的に知っている人や、

名前だけ知っている人の中で最大の作曲家です。

彼には審美眼があり、その上作曲に最も深い造形を持っています。」

 

と、親として一番嬉しい言葉をかけてもらったのです。

「連日演奏会があり、それ以外は、教えること、作曲に当てられる、この目まぐるしさはとても

筆では表せない。」

「息子に借金がなければ、銀行に2000グルーデン預けられると思う。確かに金はあるのだが

飲み食いに関する限り、台所は極端に慎ましい。」

なぜか? モーツアルトが作曲に没頭し、悪い人間と付き合って放蕩生活を送る中

気晴らしに賭けをするモーツアルトに対して、コンスタンツェもさほど節約をした

気配がないのである。

 

次第に困窮していくモーツアルト。友人に借金をお願いする手紙も残されている。

なぜなら妻コンスタンツェは、足の治療のために、温泉療養地のバーデンに長期滞在して

いたからである。それに末子を妊娠中であった。そこには家事をする女中もいて、この辺りが

コンスタンツェの浪費と思われる原因かもしれない。

 

魔笛

 

長期療養している妻に何度も手紙を送ったモーツアルトでしたが、コンスタンツェは

一度も手紙を出さなかった。しかしながら、手紙を代筆してもらうことが多かったために

書けなかったとするべきか、モーツアルトに対する愛情があまりなかったのか、この辺も

悪妻と言われる原因かもしれません。

 

1791年9月30日、モーツアルトの最後のオペラ『魔笛』が初演された。

コンスタンツェはそれを見るために帰宅したが、1週間後にはすぐにバーデンに戻っている。

コンスタンツェもまた、幼児性を持つ女性だったように思われる。

 

結婚して10年後の冬

 

コンスタンツェと結婚して10年後の冬、35歳のモーツアルトは最期の

夜を迎えることとなる。そばにいたのは義妹のゾフィーであった。

かけ布団の上には「レクイエム」が置かれ、モーツアルトはジュースマイヤーに

自分の考えを伝えて、自分が死んだら仕上げるようにと説明していた。

 

少し経って医者のグロセットがやってきて、高熱のモーツアルトに「冷罨法」を

処方しましたが、もう意識が戻りませんでした。

モーツアルトは自分の子供にあまり関心を持たなかったと言われる。

コンスタンツェもモーツアルトの埋葬には立ち合わなかったために、今でも

彼の墓地がどこにあるかわかっていない。結局モーツアルトの没後17年後に

国事顧問のニッセン(のちに再婚する相手)などの説得されて探しに行ったが、なんの

手がかりもなかった。

 

モーツアルトなきあと

 

彼の死後コンスタンツェは、モーツアルトの記念公演を開いたり、遺稿を売却したり

財産を築いた。住んでいたアパートを間貸ししていた。

1793年2月、公使館参事官としてウイーンにやってきたニッセンと同棲する。

ニッセンはコンスタンツェの子供を愛し、親切な助言や経済支援をしていたが、

コンスタンツェと子供との間はよそよそしかったらしい。

 

1820年5月、ニッセンは病気の発作を起こし、年金も得て療養を兼ねた旅が

始まる。各地を回り、モーツアルトの姉のナンネルにもあい、「モーツアルトの伝記」

の出版に関わっていた。しかし1826年の3月に完成間近にしてこの世をさった。

 

モーツアルトより、枢密院顧問官に任じらたほどの良識を持つ大人であったニッセンの方が

比重が重かったのか、義父レオポルドの隣に立派は墓石をたて、後にこの墓地を実家の

ヴェーバー家で占有してしまった。

 

ニッセンは65歳で没したが、コンスタンツェは人生最後の住まいを、ニッセンの墓のある

ザルツブルグに構え、妹のゾフィーと一緒に住んだ。

その後もしばしば訪れるモーツアルト崇拝者などには、遺髪や金時計、生前使用していた

インクスタンドなどもあげてしまった。

 

彼女は60代から70代半ばまで日記をつけていたが、家庭内のことや健康に関したこと

息子のことなどで、モーツアルトに関することは何一つ書かれてい無い。

1842年3月6日、コンスタンツェは79歳の長い生涯を閉じた。

 

まとめ

 

彼女にとって、いったいモーツアルトとは、なんであったのだろう。

最後まで謎が多いですね。

皆さんをどうお感じになったでしょうか。

 

天才モーツアルトは、聖楽でしたが、その生涯は困窮していたようです。

それを微塵も感じさせない、彼の音楽の素晴らしさを聞いていきましょう。

 

ではまた。