元気の出るピアノ曲 「名曲ピアノ100選」 ショパンのエチュード 第5番「黒鍵」

みなさんこんにちは。

今日の関東地方はあいにくの雨模様です。

天気がよくないと、こうも気持ちが変わるものなのだな、と最近

思います。 現在もあまり外出は奨励されていませんから、こんな日は

家の中でまったり過ごすのも良いでしょう。

 

さて本日、ショパンのエチュード「黒鍵」をお届けします。

この「ピアノ名曲集」に何度も名前が出てくるショパンは、流石にピアノ曲の

名作を多く作曲されたかたですから、うなずけますね。。

 

エチュード 「黒鍵」

 

 

エチュード 第5番 変ト長調

 

この曲『黒鍵』は、ご覧になって見ますと、右手はほとんどが黒鍵ですね、

途中から左手の方には白鍵が出てきますが、お見事です。

エチュードとは「練習曲」のことですが、このショパンのエチュードは

「練習曲」というより名作、名曲ですね、そして、このショパンのエチュードは

どれも演奏に大変高度なテクニックと音楽性が要求されます。

 

このエチュードを弾くために、大変な練習が必要になるということです。

そして指を早く動かす練習には、とても有効です。

 

エチュード

 

練習曲には、目的があります。

だんだんとピアノのレベルが上がりますと、素早く指を動かすことが

要求されてきます。ですから「指が早く動かない!」ではなくて

「指を早く動くようにしましょう」ということです。

ですから、指ならしとして活用している方も多いです。

 

ジャズピアニストの方もまずショパンのエチュードを弾く、という方も

いらっしゃいます。

指を早く動かすことで、演奏に必要なゆびや腕の筋肉が発達して、さらに

演奏しやすくなります。

 

なるほど、やればやるほど上手くなるのですね。

 

 

楽譜

 

次に楽譜を見て見ましょう。

うあーー! フラットが6つありますね。

ピアノの習い始めは、しばらく白鍵ばかりですから、黒鍵と聞くと

弾き辛そう、と思っちゃいますね。でも逆に黒鍵ばっかりと思えば

そうでもないです。 (なーんて! 弾けないけど。)

 

とにかくテンポよく、流れるように弾きたいですね。

 

まとめ

 

ピアノを習っていると、いつかは弾きたい、ショパンの曲。

特にこの「エチュード」はテクニックを鍛えるのに最高ですね。

曲としても素晴らしいので、練習が楽しくなることでしょう。

本当に、「私、ピアノを弾いてまーすー!」 という気分にさせて

くださいます。ありがとうございますショパン様、でも難しいのよ。

 

 

お知らせ。 ピアノを習いたいけど、少し躊躇している方へ、

まず、ご自分で初めて見てはいかがでしょう。

最近は、結構良いものがあります。

千里のみちも、一歩から。

 

30日でマスターするピアノ教本

 

ではまた。

 

現役ピアノ教師が選んだ「ピアノ名曲集 100選」「風変わりな美女」より(l:大リトルネロ)

みなさんこんにちは。

4月に入りました。今日も縁起の良い日だそうです。

宝くじでも買ってみようかしら。

 

さて本日は、エリック・サティ作曲の作品をお届けします。

 

大リトルネロ

 

 

この曲はシャンゼリゼ劇場の舞踏家カリアティスのために

ミュージック・ホールの音楽を織り交ぜて書かれた管弦楽曲で

ピアノの4手連弾用も作られました。

 

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上記の自動演奏は連弾用の楽譜が出てきます。

写真の方がエリック・サティ氏で大変な変わり者だったそうです。

では彼の人生について見ていきましょう。

 

エリック・サティ

 

 

サティはパリ音楽院在学中に指導教授より、才能がないと否定され

1885年に2年半あまりで除籍になった。

その間の作品は、1884年に処女作「アレグロ」(ピアノ曲)や

「アレグロ」、「オジーヴ」、そして「ジムノペディ」や「グノシエンヌ」

などを発表した。

 

あの名作「ジムノペディ」の独特の響きは良いのにね。

 

1887年からモンマルトルに居住し、1890年からコルト通り6番地に居住する。

モンマルトルのカフェ・コンセール「黒猫」に集う芸術家の1人になり、

ドビュッシー、コクトーやピカソたちと交流した。このカフェ・コンセールのための

声楽曲も書いている。

 

名曲「ジュ・トゥ・ヴー」はこの時の作品だそうです。

彼は酒場でピアノを演奏して主な生計を立てていました。ですから

お客さんの邪魔になるような演奏はできませんでした。その辺りも彼の作風に

影響しているかもしれませんね。

 

変わり者と言われる理由の一つに、奇妙な題名をつけることがあげられる。

「犬のためのブヨブヨとした前奏曲」や、「なしの形をした3つの小品」

「胎児の干物」「裸の子供たち」や、バレエ「本日休演」など、

想像するだけでも面白いです。

 

作風

 

若い頃に教会に入り浸っていた影響か、教会旋法(スケール、モード)を

自分の作品に取り込んでいる。そして調性や、和声進行も無視して、対位法の

違反進行も書かれていた。

時代や、やがて無調に入っていきましたから、まさに先駆けでしたね。

教会旋法はジャズの世界でも取り上げています。モードジャスなどがその例ですね。

 

交流のあったドビュッシーやラベルも旋法を扱うようになり、新しい雰囲気を出すことに

成功している。 これはサティの功績でしょうね。

そしてのちに彼は調号表記も捨てた。拍子記号や小節線、終止符すらも廃止した。

これは発展してオリビエ.メシアンなどの現代音楽家へと続いて行った。

 

変わり者伝説

 

彼が本当に変わっていたのか、確かに今までとは違うものを表現したのは事実ですね。

1889年にパリ万博で彼は日本の歌謡曲を聞いたそうです。翌年に薔薇十字教団に入り

1891年に聖杯の薔薇十字教団聖歌隊長に任命されている。

宗教との関わりは深かったようです。

 

1893年にシュザンヌ・ヴァラドンと交際を始め、300通を超える手紙を書き、

6ヶ月後に絶交した。1905年には演奏会の会場で雨傘で決闘して警察に拘留される

など、人間味あふれるかたのようでした。

1925年7月1日聖ジョセフ病院にて肝硬変のため他界。

 

まとめ

 

我が道を行くタイプのサティですね。

人は必ず何かの影響を受けますが、それを作品に昇華させたことが

彼の何より素晴らしかったところですね。 私なども愚痴ばかり吐いていないで、

これを何かに変えてゆくぞ、ぐらいの気持ちがあると良いですね。

 

現役ピアノ教師が選んだ「ピアノ名曲集 100選」 ラプソディー イン ブルー(ガーシュイン)

みなさんこんにちは。

昨日もいまいちパソコンが不完全ですが、本日も続けます。

元気の出る、明るい曲シリーズ、今日はガーシュイン作曲の

ラプソディー イン ブルー です。

 

ラプソディー・イン・ブルー

 

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なんとバーンスタインが指揮をしてピアノも弾いています。すごいですね。

この曲はピアノ独奏と管弦楽のための作品です。

ラプソディー(狂詩曲)は「民族音楽的で叙事詩的な、特に形式がなく自由奔放

なファンタジー風の楽曲」という意味がある。

 

当時はアメリカではジャズが大流行していて、ガーシュウィン自身も影響を受けていました。

彼にとってはジャズを「アメリカにおける民族的な音楽」と捉えていた。

今までにない、アメリカっぽい音楽の代表ですね。

ガーシュウィンはこの曲をたった二週間くらいで一気に書き上げたそうです。

 

ジョージ・ガーシュウィン

 

当時まだ彼はオーケストレーションに精通しておらず、作曲の期間が限定されていることが

加わり、ファーディ・グローフェがオーケストレーションを担当した。

しかしガーシュウィン自身もピアノが達者でしたので、本人が弾くピアノと小編成の

ジャズバンド向けの楽譜も完成されている。現在でもよくブラスバンドや、吹奏楽団でも

演奏されています。

 

曲はジャズの要素を多く含んでいる。

 

 

 

こちらがガーシュウィン本人です。大変に大柄な方だったそうです。

当然手も大きいですから、ピアノ独奏の部分にはオクターブを超えるところがあり

演奏者泣かせな部分ですね。ですから手の小さな女性では弾くことがかなり難しいです。

 

彼はアメリカのニューヨーク生まれです。

ユダヤ系ロシアの移民の子供としてブルックリンで生まれました。

10代からピアノを習い、13歳の時には和声を習っている。

やがて彼は人気ソングライターとなり、1920年以降は作詞家となった兄の

アイラ・ガーシュウィンと組んでミュージカルむけに多くのポピュラー・ソングを

送り出した。

 

1924年に「ラプソディー・イン・ブルー」(Rhapsody in Blue) を発表した。

当時は彼にとって管弦楽法は未知の領域だった。

 

 

ラベルがアメリカで成功した頃の写真でしょうね。彼がかなり背が高いのが

お分かりいただけると思います。

 

そのほかの作品としては、「パリのアメリカ人」や

名曲「サマータイム」を含むオペラ、「ポーギーとベス」

などがあります。

彼のジャズ的な表現はヨーロッパでも高く評価されてた、彼は

ラベルに師事を申し込んだが、「一流のガーシュウィンが二流のラベルに

なる必要はない」と断られています。

 

1935年以降、彼は映画音楽中心に活動します。「Shall We Dance」や

フレッド・アステア主演のミュージカルに数多くの歌を提供しました。

しかし過労がたたったのか、1937年、ハリウッドで映画の作曲中に倒れ

なんと38歳の若さで他界しました。

[Love Is Here To Stay] (1938)は遺作になりましたが、未完であったスコアは

翌年、友人らの手で完成しました。

 

まとめ

 

ガーシュウィンが、管弦楽の名手であったラベルに教えをお願いした、というのは

納得できますが、かなり作風に違いがありますよね。

やはり彼は、その個性を貫いて良かったと思います。

しかし、若くしてなくなったのは本当に残念です。

 

ではまた。