みなさんこんにちは。
穏やかな日曜日、いかがお過ごしですか?
コロナの「緊急事態宣言」が解除される地域もあるようです。
気持ちは緩みがちですが、手洗いとマスクの習慣は継続しても良いかと思います。
さて今日は、私も大好きなドビュッシーのピアノ曲です。
「亜麻色の髪の乙女」(前奏曲集 第1巻より) です。
亜麻色の髪の乙女
このピアニストのランランさんの表現がすごいですね。
もう一人女流ピアニストの演奏です。
男性と女性では「亜麻色の髪の乙女」に対するイメージが少し違うかもしれませんね。
ドビュッシー
生い立ち
クロード・アシル・ドビュッシーは1862年8月22日に、
サン ジェルマン アン レー で生まれました。
フランス印象派を代表する作曲家ですが、本人は否定的で、
象徴主義の影響が濃い。
彼はイヴァリーヌ県、サン・ジェルマン・アン・レーのパン通り38番地に生まれた。
(現在はドビュッシー博物館)となっている。
父は陶器店を経営し、母は裁縫師であった。5人兄弟の長男として生まれたが、
彼が2歳の時に洗礼を受け、その後経営難のため母方の実家(クリシー)に同居する。
8歳の頃、イタリアのバイオリニスト、ジャン・チェルッティにピアノを習う。
その後、詩人ヴェルレーヌの義母であったフルールヴィル夫人に基礎的な
音楽の手ほどきを受けた。夫人は彼の才能を見抜き、親身に彼を教えたという。
1872年の10月にパリ音楽院に入学し、ピアニストになるつもりでいた。
しかし次第に入賞に遠ざかり、ピアノ伴奏法のクラスに入った。
1880年7月、18歳の彼はチャイコフスキーのパトロンであった、フォン・メック夫人の
長期旅行にピアニストとして同伴し、作曲もした。
パリに戻り、この年の12月にギローのクラスに入り、その後毎年のように
「ローマ賞」コンクールに挑戦するが、何度も入賞を果たし、1884年に3回目の挑戦で
ローマ大賞を受賞した。それによりローマへ留学したが、雰囲気に馴染めず、期間を繰り上げて
パリに戻った。
中期
27歳の彼は国民音楽協会に入会し、新たな人脈と発表の場を得た。この頃詩人マラルメの
自宅サロン「火曜会」に唯一の音楽家として出席するようになり、「牧神の午後への前奏曲」への
作曲へと繋がっていく。
1900年代に入ると、「版画」「ペレアスとメリザンド」などで大きな成功を収め、作曲家としての
キャリアを確実なものとした。
その後も交響詩「海」や、ピアノ曲集「映像 第1集」、「前奏曲集 第1巻」などを次々に発表した。
晩年
1914年、第1次世界大戦が勃発し、9月にアンジェに避難したが、1ヶ月後にパリへと戻る。
この時すでに彼は大腸癌を発病していた。
1918年の3月25日夕刻に、55歳で死去した。
まとめ
彼はご両親が音楽家ではなかったのですね。
ピアニストを目指すも挫折し、何度も作曲コンクールに挑戦するなど
大変な努力の人、であったようです。
長い人生には、色々な迷いや、選択の連続ですからね。
ではまた。