ピアノ名曲集 元気の出る曲シリーズより  「飛翔 と「ロンド・カプリチオーソ」

みなさんこんにちは。お元気ですか?

いつもご覧くださり、ありがとうございます。

今まで毎回、作品を1〜2曲ご紹介していますが、本日から

毎回2〜3曲づつまとめてご紹介したいと思います。

 

今日の作品はまず、シューマンの「飛翔」、そして

メンデルスゾーンの「ロンド・カプリチオーソ」の2作品です。

 

飛翔 シューマン

 

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飛翔 「幻想小曲集 作品12」より。

 

この曲集はロベルト・シューマンが1837年に作曲した、8曲からなるピアノ曲集です。

第1曲から、それぞれにタイトルが付けられている。その第2曲めが「飛翔」です。

ロンド形式のヘ短調で、最も有名な作品です。力強い冒頭が印象的ですね。

 

ロベルト・シューマン

 

 

シューマンは1810年にドイツで生まれました。

7歳の時からピアノを習いましたが、作曲の方にも大変興味を示し、

11歳の時には誰にも教わらずに合唱曲や管弦楽曲を作曲しました。

中学生のことには文学にも興味を示し、その後、法律の勉強をするために

大学へ入りましたが、そこでも法律よりは、文学や哲学が好きでした。

 

20歳の時、ピアニストになろうと決心し、そのため正式に音楽の勉強を

始めました。 シューマンはピアノを練習する時に、天井から下ろした紐に

指をくくりつけて練習していました。これは、指を強くするためにやったのですが

あまりに無理をしたため、かえって指を痛め、ピアニストには慣れませんでした。

 

それでその後は、作曲や文学の方に力をいれるようになったのです。

 

作品

 

彼は「トロイメライ」などのピアノ曲を多く作曲しましたが、また音楽の雑誌

も出版して活躍しました。ショパンやブラームスも、その雑誌によって、多くの

人に知られるようになりました。

30歳をすぎてからは、ピアノ曲の他にも、交響曲や歌曲など色々な曲を作りました。

 

33歳の時にメンデルスゾーンが作った、ライプツィヒ音楽学校の先生になりましたが

校長であったメンデルスゾーンと仲が悪くなり、1年でやめてしまいました。

43歳の頃から精神病になり、ライン河に飛び込んで自殺未遂となり、その後精神病院に

入院し、回復しないまま46歳で他界しました。

 

では、もう一曲「ロンド・カプリチオーソ」ホ短調 作品14

メンデルスゾーン作曲です。

 

 

ロンド・カプリチオーソ

 

ロンド・カプリチオーソ ホ長調 作品14

メンデルスゾーン作曲

大変優美な序奏と、後から軽快なリズムがバランスよくて美しい曲です。

メンデルスゾーンについては以前の「春の歌」の時にお話ししています。

ぜひそちらもご覧になってください。

 

まとめ

 

今日は2つの作品をご紹介しました。

偶然にもこのお二人は、一度は同じ学校で「校長と教師」という立場

であったのですね。 今こうして2人の作品を聞きますと、どちらも

素晴らしく、何があったのかは、分かりませんが、後世に残したものは

どちらも名曲です。

 

当時も今も人間関係は難しいこともある、ということでしょうか。

 

ではまた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

元気の出るピアノ曲 「名曲ピアノ100選」 ショパンのエチュード 第5番「黒鍵」

みなさんこんにちは。

今日の関東地方はあいにくの雨模様です。

天気がよくないと、こうも気持ちが変わるものなのだな、と最近

思います。 現在もあまり外出は奨励されていませんから、こんな日は

家の中でまったり過ごすのも良いでしょう。

 

さて本日、ショパンのエチュード「黒鍵」をお届けします。

この「ピアノ名曲集」に何度も名前が出てくるショパンは、流石にピアノ曲の

名作を多く作曲されたかたですから、うなずけますね。。

 

エチュード 「黒鍵」

 

 

エチュード 第5番 変ト長調

 

この曲『黒鍵』は、ご覧になって見ますと、右手はほとんどが黒鍵ですね、

途中から左手の方には白鍵が出てきますが、お見事です。

エチュードとは「練習曲」のことですが、このショパンのエチュードは

「練習曲」というより名作、名曲ですね、そして、このショパンのエチュードは

どれも演奏に大変高度なテクニックと音楽性が要求されます。

 

このエチュードを弾くために、大変な練習が必要になるということです。

そして指を早く動かす練習には、とても有効です。

 

エチュード

 

練習曲には、目的があります。

だんだんとピアノのレベルが上がりますと、素早く指を動かすことが

要求されてきます。ですから「指が早く動かない!」ではなくて

「指を早く動くようにしましょう」ということです。

ですから、指ならしとして活用している方も多いです。

 

ジャズピアニストの方もまずショパンのエチュードを弾く、という方も

いらっしゃいます。

指を早く動かすことで、演奏に必要なゆびや腕の筋肉が発達して、さらに

演奏しやすくなります。

 

なるほど、やればやるほど上手くなるのですね。

 

 

楽譜

 

次に楽譜を見て見ましょう。

うあーー! フラットが6つありますね。

ピアノの習い始めは、しばらく白鍵ばかりですから、黒鍵と聞くと

弾き辛そう、と思っちゃいますね。でも逆に黒鍵ばっかりと思えば

そうでもないです。 (なーんて! 弾けないけど。)

 

とにかくテンポよく、流れるように弾きたいですね。

 

まとめ

 

ピアノを習っていると、いつかは弾きたい、ショパンの曲。

特にこの「エチュード」はテクニックを鍛えるのに最高ですね。

曲としても素晴らしいので、練習が楽しくなることでしょう。

本当に、「私、ピアノを弾いてまーすー!」 という気分にさせて

くださいます。ありがとうございますショパン様、でも難しいのよ。

 

 

お知らせ。 ピアノを習いたいけど、少し躊躇している方へ、

まず、ご自分で初めて見てはいかがでしょう。

最近は、結構良いものがあります。

千里のみちも、一歩から。

 

30日でマスターするピアノ教本

 

ではまた。

 

現役ピアノ教師が選んだ「ピアノ名曲集 100選」「風変わりな美女」より(l:大リトルネロ)

みなさんこんにちは。

4月に入りました。今日も縁起の良い日だそうです。

宝くじでも買ってみようかしら。

 

さて本日は、エリック・サティ作曲の作品をお届けします。

 

大リトルネロ

 

 

この曲はシャンゼリゼ劇場の舞踏家カリアティスのために

ミュージック・ホールの音楽を織り交ぜて書かれた管弦楽曲で

ピアノの4手連弾用も作られました。

 

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上記の自動演奏は連弾用の楽譜が出てきます。

写真の方がエリック・サティ氏で大変な変わり者だったそうです。

では彼の人生について見ていきましょう。

 

エリック・サティ

 

 

サティはパリ音楽院在学中に指導教授より、才能がないと否定され

1885年に2年半あまりで除籍になった。

その間の作品は、1884年に処女作「アレグロ」(ピアノ曲)や

「アレグロ」、「オジーヴ」、そして「ジムノペディ」や「グノシエンヌ」

などを発表した。

 

あの名作「ジムノペディ」の独特の響きは良いのにね。

 

1887年からモンマルトルに居住し、1890年からコルト通り6番地に居住する。

モンマルトルのカフェ・コンセール「黒猫」に集う芸術家の1人になり、

ドビュッシー、コクトーやピカソたちと交流した。このカフェ・コンセールのための

声楽曲も書いている。

 

名曲「ジュ・トゥ・ヴー」はこの時の作品だそうです。

彼は酒場でピアノを演奏して主な生計を立てていました。ですから

お客さんの邪魔になるような演奏はできませんでした。その辺りも彼の作風に

影響しているかもしれませんね。

 

変わり者と言われる理由の一つに、奇妙な題名をつけることがあげられる。

「犬のためのブヨブヨとした前奏曲」や、「なしの形をした3つの小品」

「胎児の干物」「裸の子供たち」や、バレエ「本日休演」など、

想像するだけでも面白いです。

 

作風

 

若い頃に教会に入り浸っていた影響か、教会旋法(スケール、モード)を

自分の作品に取り込んでいる。そして調性や、和声進行も無視して、対位法の

違反進行も書かれていた。

時代や、やがて無調に入っていきましたから、まさに先駆けでしたね。

教会旋法はジャズの世界でも取り上げています。モードジャスなどがその例ですね。

 

交流のあったドビュッシーやラベルも旋法を扱うようになり、新しい雰囲気を出すことに

成功している。 これはサティの功績でしょうね。

そしてのちに彼は調号表記も捨てた。拍子記号や小節線、終止符すらも廃止した。

これは発展してオリビエ.メシアンなどの現代音楽家へと続いて行った。

 

変わり者伝説

 

彼が本当に変わっていたのか、確かに今までとは違うものを表現したのは事実ですね。

1889年にパリ万博で彼は日本の歌謡曲を聞いたそうです。翌年に薔薇十字教団に入り

1891年に聖杯の薔薇十字教団聖歌隊長に任命されている。

宗教との関わりは深かったようです。

 

1893年にシュザンヌ・ヴァラドンと交際を始め、300通を超える手紙を書き、

6ヶ月後に絶交した。1905年には演奏会の会場で雨傘で決闘して警察に拘留される

など、人間味あふれるかたのようでした。

1925年7月1日聖ジョセフ病院にて肝硬変のため他界。

 

まとめ

 

我が道を行くタイプのサティですね。

人は必ず何かの影響を受けますが、それを作品に昇華させたことが

彼の何より素晴らしかったところですね。 私なども愚痴ばかり吐いていないで、

これを何かに変えてゆくぞ、ぐらいの気持ちがあると良いですね。

 

現役ピアノ教師が選んだ「ピアノ名曲集 100選」 ラプソディー イン ブルー(ガーシュイン)

みなさんこんにちは。

昨日もいまいちパソコンが不完全ですが、本日も続けます。

元気の出る、明るい曲シリーズ、今日はガーシュイン作曲の

ラプソディー イン ブルー です。

 

ラプソディー・イン・ブルー

 

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なんとバーンスタインが指揮をしてピアノも弾いています。すごいですね。

この曲はピアノ独奏と管弦楽のための作品です。

ラプソディー(狂詩曲)は「民族音楽的で叙事詩的な、特に形式がなく自由奔放

なファンタジー風の楽曲」という意味がある。

 

当時はアメリカではジャズが大流行していて、ガーシュウィン自身も影響を受けていました。

彼にとってはジャズを「アメリカにおける民族的な音楽」と捉えていた。

今までにない、アメリカっぽい音楽の代表ですね。

ガーシュウィンはこの曲をたった二週間くらいで一気に書き上げたそうです。

 

ジョージ・ガーシュウィン

 

当時まだ彼はオーケストレーションに精通しておらず、作曲の期間が限定されていることが

加わり、ファーディ・グローフェがオーケストレーションを担当した。

しかしガーシュウィン自身もピアノが達者でしたので、本人が弾くピアノと小編成の

ジャズバンド向けの楽譜も完成されている。現在でもよくブラスバンドや、吹奏楽団でも

演奏されています。

 

曲はジャズの要素を多く含んでいる。

 

 

 

こちらがガーシュウィン本人です。大変に大柄な方だったそうです。

当然手も大きいですから、ピアノ独奏の部分にはオクターブを超えるところがあり

演奏者泣かせな部分ですね。ですから手の小さな女性では弾くことがかなり難しいです。

 

彼はアメリカのニューヨーク生まれです。

ユダヤ系ロシアの移民の子供としてブルックリンで生まれました。

10代からピアノを習い、13歳の時には和声を習っている。

やがて彼は人気ソングライターとなり、1920年以降は作詞家となった兄の

アイラ・ガーシュウィンと組んでミュージカルむけに多くのポピュラー・ソングを

送り出した。

 

1924年に「ラプソディー・イン・ブルー」(Rhapsody in Blue) を発表した。

当時は彼にとって管弦楽法は未知の領域だった。

 

 

ラベルがアメリカで成功した頃の写真でしょうね。彼がかなり背が高いのが

お分かりいただけると思います。

 

そのほかの作品としては、「パリのアメリカ人」や

名曲「サマータイム」を含むオペラ、「ポーギーとベス」

などがあります。

彼のジャズ的な表現はヨーロッパでも高く評価されてた、彼は

ラベルに師事を申し込んだが、「一流のガーシュウィンが二流のラベルに

なる必要はない」と断られています。

 

1935年以降、彼は映画音楽中心に活動します。「Shall We Dance」や

フレッド・アステア主演のミュージカルに数多くの歌を提供しました。

しかし過労がたたったのか、1937年、ハリウッドで映画の作曲中に倒れ

なんと38歳の若さで他界しました。

[Love Is Here To Stay] (1938)は遺作になりましたが、未完であったスコアは

翌年、友人らの手で完成しました。

 

まとめ

 

ガーシュウィンが、管弦楽の名手であったラベルに教えをお願いした、というのは

納得できますが、かなり作風に違いがありますよね。

やはり彼は、その個性を貫いて良かったと思います。

しかし、若くしてなくなったのは本当に残念です。

 

ではまた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現役ピアノ教師が選んだ「ピアノ名曲集 100選」 第2段 元気なピアノ曲シリーズ

みなさんこんにちは。

パソコンが復活して嬉しい限りです。

今日は前回の「不完全」な曲も含めて、ご紹介していきたいと思います。

 

まずは、モーツアルトのピアノ協奏曲です。

 

ピアノ協奏曲 第26番 「戴冠式」第1楽章

 

 

この曲は、オーストリア皇帝レオポルト2世の、神聖ローマ皇帝戴冠を祝して

催されたコンサートで惹かれただけに、端正な華やかさを感じます。

 

「戴冠式」

 

この曲はニ長調KV537は、モーツアルトの最後から2番目の、ピアノ協奏曲です。

1788年の2月24日に完成したとのことです。

現役ピアノ教師が選んだ「ピアノ名曲集 100選」 第2段 元気なピアノ曲シリーズ

みなさんこんにちは。

パソコンが復活して嬉しい限りです。

今日は前回の「不完全」な曲も含めて、ご紹介していきたいと思います。

 

まずは、モーツアルトのピアノ協奏曲です。

 

ピアノ協奏曲 第26番 「戴冠式」第1楽章

 

 

この曲は、オーストリア皇帝レオポルト2世の、神聖ローマ皇帝戴冠を祝して

催されたコンサートで惹かれただけに、端正な華やかさを感じます。

 

「戴冠式」

 

この曲はニ長調KV537は、モーツアルトの最後から2番目の、ピアノ協奏曲です。

1788年の2月24日に完成したとのことです。

昨日のお詫び 

皆さま、いつもご覧いただきありがとうございます。

先ほどめでたく私のPCはなんとか復活いたしました。

もともと機械に弱い私。検索、検索そして検索してやっとなんとか

だいたい元に戻りました。

 

 

 

昨日の編集をしたかったのですが、これがまた厳しく、また次回から

気持ちも新たに投稿いたします。

 

次回は2回分を予定しています。

「元気が出るピアノ」シリーズでございますよ。

お楽しみに。 では次回にお会いしましょう。

 

ではまた。

現役ピアノ教師が選んだ「ピアノ名 曲集 100選」元気が出る曲

みなさんこんにちは。
お元気ですか?

さて今日からは、この名曲集の
「元気が出る曲たち」として春に相応しく、元気を出してゆきましょう!という感じで参ります。

本日のピアノ曲は、モーツァルトの

ピアノ協奏曲です♪。

本日はパソコンの調子がよろしくないので、スマホからやっております。はたしてどうなりますか。

ピアノ協奏曲 第26番

二長調 K.537 [戴冠式]

第一楽章

オーストリア皇帝レオポルト2世の神聖ローマ皇帝戴冠祝しされたコンサートで弾かれただけに端正な華やかさを感じます。
https://youtu.be/OYiqwiSgSZQ

このモーツァルトの絵は、彼の死後書かれたそうで、想像の部分も多いそうです。

 

今は写真がありますので、そのまま残りますネ!

 

今日のまとめ

まとめというより反省してます。
パソコンが早く直せますように❗️

お詫びに、綺麗な桜とお花写真を、どうぞ! って少しピント合ってないけど!重ね重ね、申し訳ございませんでした。

ではまた。

現役ピアノ教師が選んだ「ピアノ名曲集 100選」 亡き王女のためのパヴァーヌ ラベル

みなさんこんにちは。

桜の便りがあちこちで聞かれます。

卒園、卒業、おめでとうございます。

新たな門出をお祝いしましょう!

 

祝賀会は家族や友人で開催しましょう。

大人数でやりたい時は zoom などを使用してワイワイできます。

そのうちVRが普及してきたら、面白いことになりそうです。

 

今日はラベルの曲です。

 

亡き王女のためのパヴァーヌ

 

優雅な舞曲の形式を用いた美しい曲です。

パヴァーヌとは、当時ヨーロッパの宮廷で普及していた踊りのことです。

 

 

この曲はラベルが、パリ音楽院在学中に作曲した、初期を代表する傑作です。

彼はこの作品を自身のパトロンであるポリニャック公爵夫人に捧げました。

 

ではオーケストラ版もどうぞ。

 

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ラベルは、オーケストラーションが卓越しており、「管弦楽の魔術師」の異名を

持っています。

 

モーリス・ラベル

 

 

ジョゼフ・モーリス・ラベルは1937年3月7日生まれのフランス人です。

バレエ音楽「ダフニスとクロエ」、「ボレロ」や、「展覧会の絵」のオーケストレーション

で知られています。ピアノ曲では「水の戯れ」などの作品があります。

 

父ジョゼフはスイス出身の発明家兼実業家だった。

父親が音楽好きで幼少の頃からピアノや作曲を学び、ラベルが音楽の道へ進むことを

激励したそうです。 ラベルはパリ音楽院に14年間在籍していました。

 

第一次世界大戦が勃発して、パイロットとして志願したラベルでしたが、体重が規定に

2キロ満たなかったことから、その希望はかないませんでした。が、1915年3月に

トラック輸送兵として兵籍登録されました。

彼の任務は砲弾の下をかいくぐって資材を輸送するような危険なものでした。

 

当時の前線ヴェルダン付近まで到達したが、道中で腹膜炎となり手術を受けました。

結局、終生戦争の傷から回復することはなかったそうです。

対戦中の1917年に最愛の母親が76歳で他界すると、生涯最大の悲しみに直面した

彼は創作意欲を極度に失い、かろうじて「クープランの墓」を完成させた以外は

3年間にわたって新曲を生み出せなかった。

 

1928年に初めてアメリカに渡り、4ヶ月に及ぶ演奏旅行を行った。ニューヨークでは

満員の聴衆のスタンディングオベーションを受けた。

当時のアメリカの黒人霊歌やジャズなどに感銘を受け、この演奏の成功により彼は

世界的に有名になった。同年オックスフォード大学の名誉博士号を授与された。

 

1927年ごろから軽度の記憶障害や言語症に悩まされていた。1932年にパリでタクシーに乗って

いる時に交通事故に遭い、これを機に症状が徐々に進行していった。

1937年に脳腫瘍などの治療の専門家として名高かった脳外科医クロヴィス・ヴァンサンの

執刀のもとで手術を受けたが、腫瘍も出血も発見されず、脳の一部に萎縮が見られただけだった。

 

ヴァンサンはラヴェルが水頭症を発症していないことを確かめると萎縮した脳を膨らまそうと

生理食塩水を注入したが、間も無く昏睡状態に陥り、意識が戻らぬまま、12月28日に

62歳で死亡した。会葬には作曲家の、ダリウス・ミヨーや、フランシス・プーランク、

イーゴリ・ストラヴィンスキーらが立ち会った。

 

まとめ

 

ラベルが戦争に志願していたことは今知りましたが、やはり戦争、特に世界大戦とかは

文化や芸術に大変な影響を与え、また音楽家や芸術家、作家の方達も戦地に赴くなど

本来の活動を制限され、またその後遺症で人生が激変してしまいます。これは全ての人に

言えます。やはり戦争はよくありません。

 

現在は世界中がコロナで大変な影響を受けている方が多くいらっしゃいます。

私たち、人類の生活習慣が変化せざるを得ない状況ですね。それに打ち勝っていくために

ぜひ知恵を持って、立ち向かっていきましょう。

 

ではまた。