みなさんこんにちは。
昨日もいまいちパソコンが不完全ですが、本日も続けます。
元気の出る、明るい曲シリーズ、今日はガーシュイン作曲の
ラプソディー イン ブルー です。
ラプソディー・イン・ブルー
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なんとバーンスタインが指揮をしてピアノも弾いています。すごいですね。
この曲はピアノ独奏と管弦楽のための作品です。
ラプソディー(狂詩曲)は「民族音楽的で叙事詩的な、特に形式がなく自由奔放
なファンタジー風の楽曲」という意味がある。
当時はアメリカではジャズが大流行していて、ガーシュウィン自身も影響を受けていました。
彼にとってはジャズを「アメリカにおける民族的な音楽」と捉えていた。
今までにない、アメリカっぽい音楽の代表ですね。
ガーシュウィンはこの曲をたった二週間くらいで一気に書き上げたそうです。
ジョージ・ガーシュウィン
当時まだ彼はオーケストレーションに精通しておらず、作曲の期間が限定されていることが
加わり、ファーディ・グローフェがオーケストレーションを担当した。
しかしガーシュウィン自身もピアノが達者でしたので、本人が弾くピアノと小編成の
ジャズバンド向けの楽譜も完成されている。現在でもよくブラスバンドや、吹奏楽団でも
演奏されています。
曲はジャズの要素を多く含んでいる。
こちらがガーシュウィン本人です。大変に大柄な方だったそうです。
当然手も大きいですから、ピアノ独奏の部分にはオクターブを超えるところがあり
演奏者泣かせな部分ですね。ですから手の小さな女性では弾くことがかなり難しいです。
彼はアメリカのニューヨーク生まれです。
ユダヤ系ロシアの移民の子供としてブルックリンで生まれました。
10代からピアノを習い、13歳の時には和声を習っている。
やがて彼は人気ソングライターとなり、1920年以降は作詞家となった兄の
アイラ・ガーシュウィンと組んでミュージカルむけに多くのポピュラー・ソングを
送り出した。
1924年に「ラプソディー・イン・ブルー」(Rhapsody in Blue) を発表した。
当時は彼にとって管弦楽法は未知の領域だった。
ラベルがアメリカで成功した頃の写真でしょうね。彼がかなり背が高いのが
お分かりいただけると思います。
そのほかの作品としては、「パリのアメリカ人」や
名曲「サマータイム」を含むオペラ、「ポーギーとベス」
などがあります。
彼のジャズ的な表現はヨーロッパでも高く評価されてた、彼は
ラベルに師事を申し込んだが、「一流のガーシュウィンが二流のラベルに
なる必要はない」と断られています。
1935年以降、彼は映画音楽中心に活動します。「Shall We Dance」や
フレッド・アステア主演のミュージカルに数多くの歌を提供しました。
しかし過労がたたったのか、1937年、ハリウッドで映画の作曲中に倒れ
なんと38歳の若さで他界しました。
[Love Is Here To Stay] (1938)は遺作になりましたが、未完であったスコアは
翌年、友人らの手で完成しました。
まとめ
ガーシュウィンが、管弦楽の名手であったラベルに教えをお願いした、というのは
納得できますが、かなり作風に違いがありますよね。
やはり彼は、その個性を貫いて良かったと思います。
しかし、若くしてなくなったのは本当に残念です。
ではまた。