現役ピアノ教師が選んだ「ピアノ名曲 100選」 メンデルスゾーン作曲 (春の歌) 動画付き

皆さん、こんにちは。 お元気ですか?

春を感じられる日々になりました。 お花も次々に登場して、街も色づいてきました。

今日はそんな日にぴったりな曲、「春の歌」です。

 

春の歌

 

作品62−2。

初期ロマン派の名曲で、「歌詞のない歌曲風の器楽曲」ということで名付けられた

「無言歌集」の1曲です。

 

 

 

女性的で柔らかな印象の曲です。

 

メンデルスゾーン

 

この曲をかいたメンデルスゾーンは1809年ドイツ生まれで、生家は大変に裕福でした。

日曜日になると、いつも自宅の広間で演奏会が開かれて、多くの音楽家がきましたので

メンデルスゾーンも幼い時から音楽に親しんできました。

 

やがて4歳になって彼はお母さんからピアノを習い、その後ピアノの先生について正式に

勉強をしました。両親はメンデルスゾーンがレッスンを怠けないように大変厳しく監督を

していたそうです。毎朝5時に起きて朝食を食べるまでの間、ずっと練習をしたそうです。

9歳になると演奏会に出るようになり、11歳の時にはバイオリンソナタ、ピアノソナタ、

歌曲、交響曲などを作曲したそうです。

 

また、その頃、ウェーバー、ショパン、リスト、シューマンなど当時有名な作曲家とも

友人としての交流がありました。 20歳の時、バッハの「マタイ受難曲」を指揮して

バッハの本当の素晴らしさを、みんなに教えたという話は有名です。

21歳の時ピアノ曲「無言歌」の最初の6曲を書きました。その後は彼は指揮者として

ヨーロッパ中を演奏して周り、作曲家としても活躍しました。

 

38歳の時、大好きだったお姉さんが亡くなり、彼は大変ショックを受けて

自身も体調を崩して亡くなりました。

 

もう一曲、ピアノ曲ではありませんが、華々しくそしてウキウキする曲をどうぞ。

 

 

皆さんご存知の「結婚行進曲」ですね! お幸せにー!

冒頭の部分からして、もう人生の最高潮! おめでとうーって感じ満載です。

景気の良い曲です。幸せな気持ちになりますね。

こんな曲で皆さんにお祝いされて結婚式をあげるのは、おすすめです。

 

 

まとめ

 

人生の節目には色々な「式」がありますが、どれも全て音楽なしでは

成り立ちません。

音楽が人に与える影響は大きくて、生まれてから、なくなるまで私たちは

音によって、様々な出来事を作っていきます。

 

結婚式や、卒業式、それぞれにふさわしい音楽があります。

それによって私たちは、忘れがたい場面を記憶することもできます。

皆さんにとって、思い起こされる事柄には、どのような音が流れていたでしょうか。

 

ではまた。

 

 

 

現役ピアノ教師が選んだ「ピアノ名曲 100選」 (エリーゼのために)ベートーベン

みなさんこんにちは。

今日は関東地方は、あいにくの天気ですが、いかがお過ごしでしょうか。

今は卒業式シーズンで、昼間に高校生や中学生を見かけます。

みんな若々して、まさに青春!  溌剌として眩しいくらいに輝いています。

 

さあ今日はどなたでもご存知の「エリーゼのために」をお送りします。

この曲が弾きたくてピアノを始めるかたも、いらっしゃいます。

一度聞いたら忘れられない曲の出だしなど、小品でありますが名曲のナンバー1でしょう。

 

エリーゼのために

 

今回は現代的な画面でお届けします。

 

テレーゼのために

 

ベートーベンは悪筆であったらしく、この曲が「テレーゼのために」だったらしい

という説があります。なぜなら、この曲の自筆譜を所有していた女性テレーゼはベートーベンの

プロポーズを断っています。

 

このような画面を最近見かけますが、私のような人間には馴染みがなく、わかりづらいのですが

皆様はいかがでしょうか?

確か「カンパネラ」を数年かけて完成させた、海苔の漁師のおじさんも、このような画面をしようして

毎日、少しづつ覚えていったそうです。

 

もしこれがわかりやすい方は、是非これを利用してエリーゼのためにを弾いてみてください。

もしかしたら、これが新しい形の楽譜になっていくのかもしれませんね。

 

 

まとめ

 

春になると、たくさんのお花が咲き乱れて、やっぱり良いですね。

学校の新学期を9月にしてはどうか、という話も出ていますが、やはり

日本人にとって桜は色々な意味で貴重です。

それは戦争中でもそうでした。

 

古くから歌に読まれたりしてきた桜、人生の節目に見上げる桜など

特別な思いが桜には込められますね。

そして、これから卒業される方、入学される方、そしてご父兄の皆様。

 

ご卒業おめでとうございます。

 

私自身も娘の卒業、入学を繰り返してきましたが、何度経験しても涙なしでは

語れませんね。 一番涙が止まらなかったのは保育園の卒園の時でした。

本人はなんだかよくわかっていなかったと思いますが、親は、ほんの数年前に

我が子を初めて胸に懐いたわけですから、もう何か思いが溢れて大変でした。

 

それも遠い昔の話ですが、若い生徒さん達を見ると、そのようなことを

思い出したりします。

 

ではまた。

 

 

 

 

 

 

 

 

現役ピアノ教師が選んだ「ピアノ名曲 100選」 ショパン ポロネーズ 第6番「英雄」

みなさんこんにちは。

今日は3月11ですね。 忘れられない10年前の、あの時の事。

少し寒かった日でした。 ちょうど卒業式のシーズンで、各学校では

式の練習などをしていたり生徒、学生さんにとっては一番嬉しい時であった

と思います。

 

思い出すのは辛いですが、忘れてもいけないと考えています。

亡くなった方々のご冥福をお祈りすると共に、被害に遭われた方々や

心の傷に苦しんでいる方々に、1日も早く穏やかな日々を過ごせるように

祈念いたします。

 

          

 

さて今日は、どの曲にしようか大変迷いました。

しっとりとした曲も良いですが、今日のこの日に選んだ曲は、

ショパンの「英雄」です。勇ましい曲です。

勇気を奮い立たせるような曲だと思います。

 

ポロネーズ 第6番「英雄」

 

ポロネーズ 第6番「英雄」変イ長調 作品53

 

 

「ポロネーズ」とは宮廷で流行した3拍子の舞曲で、2拍目にアクセントがあるのが

特徴です。

しかし、この難曲を辻井さんは、しなやかに表現されていますね。

 

作品について

 

この曲はショパンが1842年に作曲しました。

「英雄ポロネーズ」は通称で、誰が付けたかはわかっていません。

故郷ポーランドに帰る事なくフランスで活躍したショパンは、故郷のこのリズムで

ポロネーズを何曲も書いています。この力強いリズムを持つこの曲は、ポーランドの

栄光を称えているとされ、彼の愛国心の現れと言われている。

 

使用された作品

 

この特徴のある曲は、映画やドラマの中で使用されることも多いので、

その一部をご紹介します。

 

  • フジ子・ヘミングの奇跡
  • のだめカンタービレ
  • アニメ タッチ
  • HUNTERxHUNTER

 

などです。もっとあると思います。

 

まとめ

 

作曲家にとって、生まれ育った国や地域は作品に現れます。

表現するというより、自然に創作に生かされたり、取り入れようと

します。これが郷土愛だったり、ルーツであるわけですね。

私は埼玉県生まれの埼玉県育ちですが、最近この埼玉県が

住みたい街の、上位になっているそうです!

 

「なんとなく埼玉」とか「ダサいたま」などと言われてきましたが、

それにも抵抗なく生きてきました。しかしやっと、ここでなんとなく

郷土愛を感じるようになりました。長くいると良いところも、結構あるものです。

 

皆さんの郷土愛は、どんな感じですか?

 

お知らせ。

 

私は英語も教えていますが、最近目にした、こちらの英会話教材は

納得がいくシステムです。

「超初心者」や「やってもダメだった」方に焦点を絞っているからです。

英会話は最初が大切です。ある程度になれば自分で勉強できます。

ご参考までに。

 

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ではまた。

現役ピアノ教師が選んだ「ピアノ名曲集 100選」 バッハ 「主よ、人の望みの喜びよ」

皆さん、こんにちは!

暖かな火曜日、もう寒い日はやってこないそうです。

思い上着を脱いで出かけたら、少し寒かったです。

軽い上着などで、調節できるように心がけましょうね。

 

さて本日は、バッハのカンタータをお届けいたします。

 

主よ、人の望みの喜びよ

 

コラール「主よ、人の望みの喜びよ」(カンタータ 第147番 BWV147より)

J.S.バッハ作曲

 

 

長い題名ですが、まずコラールとは、ドイツにおける賛美歌、特にプロテスタント教会で

歌われるものを指します。

ではカンタータとは何かと言いますと、声楽曲のことです。

この曲は室内楽などで演奏されることもあります。

 

室内楽

 

 

やはり室内楽ですと、また違う音色で良いですね。

 

ヨハン・セバスチャン・バッハ

 

バッハは1685年にドイツで生まれました。

バッハ家は200年にわたり、多くの音楽家を出した家柄です。

小さい時から父親にバイオリンを、そしてお兄さんにオルガンを

教えてもらいました。街の人たちも皆音楽が好きでしたから、バッハは

いつも音楽に囲まれて暮らしていました。

 

ところが彼が9歳の時、お母さんが亡くなり、そして10歳の時にはお父さんも

亡くなりました。その後お兄さんに引き取られたバッハは、そこで作曲を

教えてもらいました。お兄さんの楽譜をこっそり持ち出して、それを書き写して

勉強していたそうです。

 

学校では、ラテン語とルターの神学を勉強しました。

18歳の時、教会のオルガニストになり、その仕事をしながらたくさんの曲を書きました。

特に25歳以後の作品には、「平均律ピアノ曲集」「インベンション」などのピアノ曲や

教会カンタータ、ミサ曲、室内楽曲、管弦楽曲、オルガン曲など、有名な曲が

たくさんあります。

 

晩年になり、彼は視力を失い、2度も手術をしましたが、ほとんど見えなくなり

65歳で亡くなりました。彼はヘンデルらと共にバロック時代を築いた偉大な作曲

です。

 

Bach.jpg

 

この時代の正装したときの絵です。白い毛糸のようなものをかぶっています。

モーツアルともかぶっていましたが、ベートーベンがかぶっているのは

みたことがありません。

 

まとめ

 

 

現在オリンピックの会長を勤めている、バッハ会長は、音楽家のバッハ家とは全く

関係がないそうです。元アスリートだったようですが、一度聞いたら忘れられない

お名前ですし、何かお名前だけで、尊敬してしまいます。

 

J.S.バッハを「大バッハ」とか呼びますが、8人兄弟の未子であったそうです。

父親の部下や門弟や、兄弟達の演奏でいつも音楽で賑わっていたようです。

彼自身も合わせて20人の子をもうけていますが、亡くなった子供もいました。

しかし大変に子煩悩であったのは、自分の父親と同様でありました。

 

彼の子供達にも多くの音楽家が活躍しました。

「大音楽家ファミリー」だったわけです。

楽器をみんなで演奏することが日常であって楽しかった。

これが原点のようですね。

 

ではまた。

 

 

 

 

現役ピアノ教師が選んだ「ピアノ名曲100選」 ピアノソナタ 第21番 (シューベルト)

みなさんこんにちは。

1都3県は延長されることになった、緊急事態宣言。

ここまで長いと、緊急感がありません。

ワクチンに期待したいところですが、不安が拭えませんね。

 

さて今日はシューベルトのピアノソナタをお届けします。

題名がないと、わかりづらいですね。

聴いてみると、わかるかもしれません。

 

ピアノ・ソナタ シューベルト

 

ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D.960 第3楽章

 

 

このピアノ・ソナタはシューベルトの、このジャンルの集大成的傑作と言われている

作品です。彼は「歌曲王」と言われるように、「歌曲」をたくさん書いた方です。

この曲は大変に愛らしいテーマですね。

 

ピアニストの内田光子さんは、「死ぬ時にはシューベルトを弾いていたい」と

おしゃるほどシューベルトがお好きなようです。繊細な表現をする内田さんらしい

お言葉だと思います。

この曲の難易度はそれほど高くはありませんので、弾いた方も多くいらっしゃるでしょう。

 

 

シューベルトの「魔王」はよく音楽の教科書に出てきますが、劇的な内容ですね。

しかし彼の「野バラ」などは、皆さんもご存知の曲でしょう。

愛らしい曲です。春になると口ずさみたくなる曲です。

 

野バラ

 

 

そして忘れてならないのは、この曲。

 

ます

 

 

元気の良います(鱒)の様子が生き生きと感じられますね。

日本人は魚のことになると、お寿司やお刺身を思い起こしてしまいがちです。

シューベルトは、ますをみたことは間違い無いですが、よく食べていたかは

不明です。 ちなみに私は鱒は好きです。

 

まとめ

 

シューベルトは身の回りのことや、花や生き物を音楽で表現しました。

日常が音楽で溢れていたのでしょう。

 

お知らせ

 

先日お知らせした、英会話の教材について、

メンタリストのDaiGoさんが、今現在も受講しているそうです。

また、お試しもできるそうですので、お試ししてから考えても良いですね。

 

春に何か始めようとお考えの方には good news だと思います。

英会話は昔から skype などのオンラインがありましたね。

これからはどんどん、オンラインが進化していくと思います。

自宅にいながら、海外留学みたいに英会話が出来たら、良いですね。

そしてこの教材は、超初心者からのテキストで、挫折した方を挫折させない

工夫を凝らしてあるようです。

 

ではまた。

 

 

 

 

 

現役ピアノ教師が選んだ 「ピアノ名曲100曲」 ショパン作 子犬のワルツ

みなさんこんにちは。

穏やかな春の日、いかがお過ごしですか?
やっぱり春はいいですね。

次々とお花が咲き始めますし、新鮮な野菜も出回ります。
外へ出たくなるのは自然なことですね。

 

 

さて今日の「名曲100選」は

ショパンの「子犬のワルツ」です。

小さな子犬が、ぐるぐると目まぐるしく動く様が思い起こされる1曲です。

 

子犬のワルツ

 

ワルツ 第6番 Op.64-1  CT212  変ニ長調

 

;

 

作品について

 

ショパンが晩年の1846年から1848年にかけての作品です。

デルフィーヌ・ポトツカ伯爵夫人に捧げられた曲です。

大変に短い曲なので「一瞬のワルツ」という別名で呼ばれることもあります

大変に軽快な曲ですね。

 

ワルツは3拍子で、ダンスに使用されることも多いですが、

この曲でワルツのステップはできるのでしょうか。

 

ピアノ曲をたくさん残されて、名曲揃いですから、これからもショパンの

ピアノ曲は登場いたしますよ。

 

ジョルジュ・サンド

 

そして、この曲が作られたきっかけには、当時女流作家の ジョルジュ サンド 

という年上の恋人がいました。

 

ジョルジュ サンドにはお気に入りの子犬がいて、自分の尻尾を追いかけるように

いつもぐるぐると回って遊んでいたそうです。その様子を見た彼女が、

「この子犬のくるくると回る様子を音楽で表現できる?」とショパンに聞きました。

するとショパンはあっという間に、その場でこの曲を作ったと言われています。

 

すごいですね。

ショパンは即興演奏が得意でした。サロンで演奏会を開くときも、毎回少しづつ一部分を

変えてピアノを引いたそうです。あまり楽譜を書くのが得意ではなかった、という話も

ありますが。ピアノを弾きながら、どんどん描いてゆくタイプだったようです。

 

まとめ

 

「子犬のワルツ」は大変に」有名ですが、実は「子猫のワルツ」という曲を

ショパンは残しているそうです。聴いてみたいですね。

今日は本編も短かったですが、ご紹介があります。

それは「超初心者からの英会話」です。

 

あのメンタリスト ダイゴさんのお勧めする英会話のスクールです。

とにかく超初心者から中級くらいまでというレベルですので、

今まで続かなかった方や、挫折を繰り返した方向けのようです。

私も英会話を教えていますが、「超初心者からの」という点が

勇気づけられると思います。

 

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ではまた。

現役ピアノ教師が選んだ「ピアノ名曲集」 シューベルト(楽興のとき)

みなさんこんにちは。

あっという間に2月が過ぎ、3月になりました。

いよいよ春めいてきましたが、皆様の地域ではどのようなお天気でしょうか?

 

さてこの「ピアノ名曲集」は、今回で7回目です。

皆さんがそれぞれお好きな曲は登場したでしょうか?

本日は、シューベルトの楽しい曲です。

 

楽興の時

 

楽興の時 D.780 第3曲。

この曲はシューベルトが26歳の時の作品です。ですが、出版されたのは1828年ですから

亡くなった年になります。とても短い生涯でした。31歳という若さで亡くなりました。

 

では、とても楽しい曲です。どうぞ。

 

 

こちらはお馴染みの油絵です。

 

 

この絵が描かれたのは1875年ですが、彼は若くして亡くなっていますので、

亡くなってから描かれたものでしょうね。彼が何歳くらいの時でしょうか? かなり若い感じがします。

 

そして、もう一つ現代的な視覚から見た、「楽興の時」です。

 

 

これを見ると、どう弾いているかよくわかりますね。

 

さて短命であった彼の生涯について、お話しします。

 

シューベルトの生涯

 

フランツ・ペーター・シューベルトは1797年にオーストリアで生まれました。

お父さんは小学校の校長先生をしていましたが、音楽が好きでチェロを弾いたり、

また近所の人たちと合奏したりして楽しんでいました。

シューベルトは12歳で王室の礼拝堂の少年歌手になりましたが、それまでの間

父親やお兄さんから、音楽を教えてもらっていました。

 

少年歌手になってから、色々な音楽の勉強をすることができましたが、

普通の勉強を怠けてしまったので、父親に大変叱られ、それに大人の声になって

きたため少年歌手をやめました。

その後、父親の助手として小学校で働き、その年にミサ曲を作曲して、近所の人たちと

一緒に演奏しました。

 

お父さんはその演奏を聴いて大変喜び、ピアノを買ってあげました。

シューベルトはそのピアノを使って『魔王」「野バラ」などの歌曲や

「即興曲」「ソナタ」などのピアノ曲、それに「ロザムンデ序曲」や

「未完成交響曲」などの管弦楽曲を作りました。

 

彼が25歳の時にベートーベンにあって、ピアノ曲を捧げましたが、彼はベートーベンを

神様のように尊敬していましたので、感激のあまりに何も言えないほどだったそうです。

31歳の時にベートーベンの後を追うように、亡くなりました。

シューベルトの希望で、ベートーベンのお墓の近くに埋葬されました。

 

 

まとめ

 

彼が教師を辞めてから、音楽で生活してゆくのは大変な苦労があったようです。

友人の家に居候させてもらったり、食事を分けてもらったり、裕福な人から楽譜を

買ってもらったりと、助け合いの中で作曲を続けていたのですね。

 

そして学生時代にサリエリに指導を受けたり、憧れのベートーベンに会ったりと

物凄い時代に生きていたのですね。 シューベルトはロマン派の作曲家で、特に

「歌曲王」として有名です。今でもあの「魔王」は中学生の音楽の教科書に載っています。

 

ではまた。

 

 

 

現役ピアノ教師が選んだ「ピアノ名曲集」 亜麻色の髪の乙女(ドビュッシー)

みなさんこんにちは。

穏やかな日曜日、いかがお過ごしですか?

コロナの「緊急事態宣言」が解除される地域もあるようです。

気持ちは緩みがちですが、手洗いとマスクの習慣は継続しても良いかと思います。

 

さて今日は、私も大好きなドビュッシーのピアノ曲です。

「亜麻色の髪の乙女」(前奏曲集 第1巻より) です。

 

亜麻色の髪の乙女

 

 

このピアニストのランランさんの表現がすごいですね。

 

もう一人女流ピアニストの演奏です。

 

 

男性と女性では「亜麻色の髪の乙女」に対するイメージが少し違うかもしれませんね。

 

ドビュッシー

 

 

生い立ち

 

クロード・アシル・ドビュッシーは1862年8月22日に、

サン ジェルマン アン レー で生まれました。

フランス印象派を代表する作曲家ですが、本人は否定的で、

象徴主義の影響が濃い。

 

彼はイヴァリーヌ県、サン・ジェルマン・アン・レーのパン通り38番地に生まれた。

(現在はドビュッシー博物館)となっている。

父は陶器店を経営し、母は裁縫師であった。5人兄弟の長男として生まれたが、

彼が2歳の時に洗礼を受け、その後経営難のため母方の実家(クリシー)に同居する。

 

8歳の頃、イタリアのバイオリニスト、ジャン・チェルッティにピアノを習う。

その後、詩人ヴェルレーヌの義母であったフルールヴィル夫人に基礎的な

音楽の手ほどきを受けた。夫人は彼の才能を見抜き、親身に彼を教えたという。

 

1872年の10月にパリ音楽院に入学し、ピアニストになるつもりでいた。

しかし次第に入賞に遠ざかり、ピアノ伴奏法のクラスに入った。

1880年7月、18歳の彼はチャイコフスキーのパトロンであった、フォン・メック夫人の

長期旅行にピアニストとして同伴し、作曲もした。

 

パリに戻り、この年の12月にギローのクラスに入り、その後毎年のように

「ローマ賞」コンクールに挑戦するが、何度も入賞を果たし、1884年に3回目の挑戦で

ローマ大賞を受賞した。それによりローマへ留学したが、雰囲気に馴染めず、期間を繰り上げて

パリに戻った。

 

中期

 

27歳の彼は国民音楽協会に入会し、新たな人脈と発表の場を得た。この頃詩人マラルメの

自宅サロン「火曜会」に唯一の音楽家として出席するようになり、「牧神の午後への前奏曲」への

作曲へと繋がっていく。

 

1900年代に入ると、「版画」「ペレアスとメリザンド」などで大きな成功を収め、作曲家としての

キャリアを確実なものとした。

その後も交響詩「海」や、ピアノ曲集「映像 第1集」、「前奏曲集 第1巻」などを次々に発表した。

 

晩年

 

1914年、第1次世界大戦が勃発し、9月にアンジェに避難したが、1ヶ月後にパリへと戻る。

この時すでに彼は大腸癌を発病していた。

1918年の3月25日夕刻に、55歳で死去した。

 

まとめ

 

彼はご両親が音楽家ではなかったのですね。

ピアニストを目指すも挫折し、何度も作曲コンクールに挑戦するなど

大変な努力の人、であったようです。

 

長い人生には、色々な迷いや、選択の連続ですからね。

 

ではまた。

現役ピアノ教師が選んだ「ピアノ名曲集」 モーツァルトの「トルコ行進曲」

みなさんこんにちは。

「ピアノ名曲集」です。

 

今日は2月最後の週末です。

もう2月が終わるのです。

そろそろ「緊急事態宣言」が解除になる地域もあるようで、

春を迎えて、なんとなくウキウキしてきます。

 

さて今日は、モーツァルトの「トルコ行進曲」です。

トルコ、という国は当時のヨーロッパの人にとっては、異国のアジアを

意味していたそうです。

 

この曲はピアノ・ソナタの中の第3楽章なんです。正式には、

ピアノ・ソナタ 第11番 イ長調 K.331より 第3楽章

ピアノの発表会などでもよく弾かれる一曲です。

では、どうぞ。

 

トルコ行進曲

 

 

モーツァルトのピアノ曲は特に音色が美しいですね。

ですから意外と弾くのは難しいのです。

 

さて今日は、オーケストラ バージョンもお届けします。

 

オーケストラによる トルコ行進曲

 

 

オーケストラですと曲の強弱もよくわかり、指揮者の雰囲気もたのしげです。

 

ではここで、モーツァルトの生涯について少しお話しします。

 

音楽の神童モーツアルト

 

ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルトは1756年にオーストリアで生まれました。

お父さん(レオポルド)は宮廷のバイオリニストで、モーツアルトにピアノを小さい頃から教えました。

5歳の時に「メヌエット」を作曲し、周りから天才と言われていました。

 

レオポルドは幼いモーツアルトを、勉強のためにヨーロッパ演奏旅行をして回りました。

モーツアルトは、その後ヨーロッパ旅行で学んだことを、曲の中で表現しています。

8歳から10歳にかけて、ピアノ曲、交響曲、オペラなどを沢山書きました。

 

彼の天才ぶりは一度聞いた曲を全部忘れない、ということができたからでもあります。

14歳の時にイタリアのシスティン教会で(ミゼーレ)という曲を聴き、

教会の外には絶対に出せない曲で誰も楽譜をみたことがないのに、彼は全てを

楽譜に書き残すことができました。

 

20歳を過ぎてからは、優れた作品を次々に発表し、その中でも特に

「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」「ジュピター」などの交響曲、

そして、ピアノ・ソナタ、ピアノ協奏曲などは特に有名です。

 

しかし30歳を過ぎた頃から、だんだん体調を崩し、貧困のなか36歳の

若さで亡くなりました。

 

彼の音楽は、真っ青な青空のように澄んでいて、そして真珠のように美しく

輝いています。いつも聞くひとの心をとても爽やかにしてくれます。

 

 

まとめ

 

モーツアルトの音楽が脳や体に良いとされる一つの理由としては、

その、音色の美しさ(純粋さ)であると思います。

和音の澄んだ響きが、脳などに良い影響を与えます。

 

 

「ミゼーレ」という曲は合唱曲でかなり複雑なはずなのに、彼は一音違わずに

楽譜にしたそうです。確かこの話は、脳科学者の茂木健一郎さんがお話し

していました。茂木先生は恐らく彼は「サバン症候群」ではなかったのか。

とお話ししておられました。

 

そうですね、超人的ですから、普通ではないですね。

今日はこの辺で。

 

ではまた。

 

 

 

 

 

現役ピアノ教師が選んだ「ピアノ名曲集」 ショパン「別れの曲」12のエチュード作品10より

みなさんこんにちは。

タイトルもいっしんしまして、また引き続き「ピアノ名曲集」を

描いてまいります。今日はショパンです。

 

エチュード第3番 ホ短調

 

12のエチュード作品10 「別れの曲」

ショパンが27曲発表した、エチュード(練習曲)のなかの一曲です。

ピアノ曲といえば、ショパンと言われるほど、多くのピアノ曲を残しています。

 

では、さっそくどうぞ。

 

 

ショパンエチュードの第3番目に出てくるこの曲は、ゆっくりとした美しいメロディー

が素晴らしい曲です。弾くのはもちろん難しくて、表現力がかなり必要ですね。

ここでショパンの写真をご紹介します。

 

 

このお写真、どう思いますか?

慣れない撮影でかなり緊張しているように思えます。

音楽室に飾ってある絵は、若い時のものでしょう。

絵と同様に細身で少し神経質な感じに思えます。

 

ショパンの人生

 

彼はポーランドで1810年に生まれました。

4歳からピアノを習い、8歳の時には演奏会に出られるほど上手に

なり、「第二のモーツアルト」と呼ばれるようになりました。

 

11歳からはピアノを習うのをやめて、作曲の方を勉強するようになりました。

最初に作った曲「ロンド」が12歳の時に出版され、その後もたくさんのピアノ曲を

作りました。

 

その頃、バイオリンの名人と言われる、パガニーニの演奏を聞き、大変に感動し

自分もピアニストになろうと決心し、ウィーンやワルシャワ、パリなどで、自分の

曲を演奏し大成功をおさめました。

 

メンデルスゾーン、リスト、シューマンなどの有名な作曲家たちとも友達になり

いろいろな影響を受けました。

29歳から36歳までの間、ノクターンやワルツなどの名曲を作りました。

そのほとんどがピアノ曲です。

 

彼は39歳の時、前から悪かった結核がますます悪くなり、パリで亡くなりました。

 

まとめ

 

このショパンもあの、パガニーニの影響を強く受けていますね。

ロマン派時代の全ての音楽家に影響を与えた、パガニーニもまた

天才であったわけです。

 

彼はポーランド生まれで、作品の中には、民族的なリズムを取り入れた作品も

多くあります。自分のルーツを考えると自然と、そこに行き着くのでしょうか。

作品を描いた年数は短いですが、どのピアノ曲も名曲ですね。

 

結核であったためか、繊細で壊れやすい性質であったようです。

 

ショパンの曲はこの後も沢山出てきますよ。お楽しみに。

 

ではまた。