ドビュッシーの「夢」、溜息(リスト) ピアノ名曲集100選より リラックスできる曲

みなさんこんにちは。

お元気でしょうか?

もうあまりコロナの話はしたくありませんが、宣言が出た地域の方々は、

明日から外での楽しみは、しばらくお預けにして、

家の中で楽しく過ごす工夫をしましょう。

 

実は私は明日、ピアノ教室の発表会があるのです。

今日ご紹介する2曲はどちらもよく発表会などで演奏される曲です。

ただし上級者の方になりますが。

まず1曲目は、ドビュッシーの「夢」です。

 

 

 

ドビュッシー

 

この作品はドビュッシーがなんと22歳の時に書かれました。

まだ駆け出しの頃に経済的な苦境から必要に迫られて書いた曲と言われています。

本人はあまりこの曲を評価しておらず、全く好きでもないし、大したことのない粗悪品

とまで語っていたそうです。 そんなことないのに。

 

 

 

譜面をみますと、とっつきやすそうで、何より音に癒されます。

そして題名の通りに、ふわーとした感じで、リズムが複雑でもないですが、

それなりに深い曲ですね。 一度弾いてみてはいかがでしょうか?

 

次はリストの「ため息」です。

 

ため息

 

 

映像を見ると分かりますが、左右のてが交差していますね。

これは演奏するの大変です。 リストご本人は平気だったのでしょうか。

私はこの曲に何度もチャレンジするも、途中で挫折してしまう、という感じです。

でもこの映像は大変参考になります。ありがたいですね。

次に楽譜をご紹介いたします。

 

3段の譜面

 

 

ピアニストの演奏とは違いますが、かなり工夫されています。少し驚きました。

映像と合わせて学習すると、どうやって弾くのか理解しやすいでしょうか。

曲の途中に難所がいくつもあり、山をいくつも超えていくような感じの曲かしら。

出版社により最後の部分が違いますが、どちらもすばらしいです。

 

まとめ

本日の2曲は、リラックスできたでしょうか。

聴くのと、弾くのでは大違いで、リストを弾くときはリラックスというより

細部に神経を配ることで精一杯の私です。 それにしても

この2作品は優雅な響きとまったりとした気分にさせてくれますね。

 

これからの連休に是非ゆっくりとピアノの名曲をお楽しみください。

ではまた。

 

みなさんこんにちは。

お元気ですか?

さて今日からは、「ピアノ名曲集 100選シリーズ」より

シリーズ3、として「リラックス ピアノ」をお届けいたします。

ゆったりとしてお聞きください。

 

ジムノペディ

 

まず、この曲が浮かびます。力が抜けてゆくような透明な響きをおき聴きください。

 

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ジムノペデイ 第1番 エリック・サティ作曲

 

この曲は、サティがキャバレーでピアニストとして働き始めた22歳の時の作品です。

キャバレーでは、あまり大きな音でピアノを演奏することはできませんでした。

お客様の会話を邪魔しないように弾くのが、キャバレーピアニストの役割でした。

そんな中で生まれた、繊細な和音の数々、その頃サティは何を思っていたのでしょうか。

 

 

サティの珍しい写真です。何か悪戯っぽい表情で「変人」と言われた

彼らしい表情ですね。

 

ジムノペデイの意味

 

この言葉はサティが作った造語です。さすがですね。

語源としてはギリシャ語の、gymnos(裸の)とpais(子供、少年)という

意味から、裸の子供や少年たちが踊ったり、体操風の遊戯を行ったりする

スパルタの神々を祀るための儀式の名称が、「gym noppaedic」である。

 

ですが、このことに関しては検証可能な参考文献や出典が全く示されて

いないか、不十分である、とのことです。

 

第1番から第3番まで、三曲で構成されています。

第1番は、ゆっくりとした3拍子で独特の愁を帯びた旋律が特徴で、

彼の代表曲の一つとして大変に有名です。

 

 

彼の友人であったドビュッシーがオーケストレーションした作品です。

サティが依頼したわけではなく、あまり表舞台に出たがらないサティのために

ドビュッシーが編曲したそうです。 やはりドビュッシー色が濃く出ていますね。

 

さて次の曲をサティでいきましょう。

 

グノシエンヌ 第1番

 

この曲は辞ジムノペディ から2年後に書かれた作品です。

 

 

この題名もサティの造語であるらしい。

これも3曲からなるこの「グノシエンヌ」は、幻想的な響きですね。

のちに彼の作品が多くの作曲家に影響を与え、そして音楽の方向性も

変化していく、一つのきっかけになりました。

 

この曲を演奏する方への助言としてサティが書いているのは。

「思考の端末で」「自惚れずに」と、大変奇妙な注意書きがあるそうです。

この作品には小節線もなく拍子記号もありません。

この辺りがのちの音楽家に与えた(本人はそのような気持ちはあったかどうか

分かりませんが)、影響ではないでしょうか。

 

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この楽譜を初めてみた方は、驚きを隠せませんが、この独特のリズム感や

退廃的な(私見です)響きは、やはりこのようにして表現されるのかしら、と思います。

とにかく興味が尽きないサティですね。

 

まとめ

 

今回はサティの作品をご紹介いたしました。

繰り返し、続いていく一定のリズムの上に響く旋律が

独特の世界観を醸し出していますね。

割と弾きやすいと思いますが、「表現する」のは難しいかもしれません。

でも自分の感性で表現すればいいのではないかと、私は思います。

 

一人で弾くのは、すごく不思議な世界に入っていきます。

是非お試しください。

 

ではまた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ガーシュウィンの「アイ・ガット・リズム」 (ピアノ名曲集 100選)より

皆さんこんにちは。

 

本日は、風もなく穏やかな暖かい快晴の天気です。

天気は晴れでも、コロナで残念な日々です。しかも大型連休の

前に、このような感染拡大では気持ちが今一つですが、私たちには

音楽がある!

 

ということで本日は「元気の出るピアノ曲」の最後に相応しく

ジョージ・ガーシュウィンの「I got rhythm」をお届けします。

踊り出したくなるような曲です。

 

アイ・ゴット・リズム

 

 

そんなにも長くない曲ですが、音がものすごく飛ぶので、弾くのは大変です。

手が大きくないと弾きづらい曲ですね。

では、次はジャズピアニストの演奏です。

 

 

ジャズとニューヨーク

 

上原ひろみさんの、ジャズアレンジされた「アイ・ガット・リズム」です。

この曲をかいたガーシュウィンは、意外にもアメリカ生まれのアメリカ育ちで、

当時大流行していた、ニューヨークでのジャズに、当然関心があり自分の作品にも

その独特のリズムなどを取り入れていました。

 

そしてだんだんとジャズミュージシャンたちも、この曲を弾くようになったのです。

上原ひろみさんは、クラッシックピアノを習っていましたが、ジャズに惹かれて

ジャズの本場で勉強し、世界的なジャズピアニストに成長いたしました。

現在でも練習をする時には、まずバッハとベートーベンを弾いてから、ジャズを

弾くそうです。

 

クラシックとジャズ

 

以前は「ジャズを始めたら2度とクラシックには戻れない」と言われたものです。

これは一流のクラシックピアニストが、ジャズを弾いて行ったら、元には戻れない、

という意味ですから、私たちはどちらも楽しむことができます。

私もジャズを始めた当初は少し譜読みで混乱しましたが、今は大体区別できます。

時々、おかしくなりますが。

 

ガーシュウィン

 

彼は作詞家となった兄とミュージカル向けの多くのポピュラーソングを作曲しました。

そのうちの一つがこの曲です。 そのごクラシックに取りくみ「ラプソデイ イン ブルー」

をファーディ グローフェの協力を得てジャズとクラシックを融合させたこの作品は

「シンフォニック ジャズ」の代表的な成功例として世界的に評価されました。

ではブラスバンドスタイルで聞いてみましょう。

 

 

めちゃめちゃ楽しいでしょう!

これがアメリカ音楽の基礎を作ったと思いますよ。

 

彼がオーケストレーションを勉強したくて、フランスの作曲家ラベルに教えを願いでるも

断られ、ロシア出身のストラビンスキーの元を訪ねるも、ガーシュウィンの高収入に驚き

「どうしたら、そこまで収入を上げられるのか、教えて欲しい。」と言ったとか言わないとか。

そしてさらにナディア ブーランジェへの紹介状を書きましたが、彼女は「彼には生まれながらの

音楽的才能があり、その邪魔をしたくない」と弟子とすることを断ったそうです。

 

その後もあの哀愁を帯びた「サマータイム」を含む「ポギーとベス」などの名作を描きました。

この作品は、黒人コミュニティの風俗をリアルに描いた作品で、出演者は全て黒人でした。

 

 

まとめ

 

ガーシュウィンは1937年の7月11日に38歳という若さで脳腫瘍のために

他界しましたが、彼の作品が世界に影響を与えたことは間違いなく、大変に

残念ですね。

原因としては超過密スケジュールをこなす「ハリウッド病」などと思われていたそうです。

かなり無理をしていたようですね。

 

やっぱり無理はいけません。

私は大丈夫です。

 

ではまた。

 

 

 

 

モーツアルト ピアノソナタ第15番  ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番

みなさんこんにちは。

 

関西地区の方、東京都内にお住まいの方、そして全国の蔓延防止対象地域に

お住まいの皆様、またしばらくの間、少し不自由を感じるかもしれませんが、

今回の変異種はお子さんなど若い方に感染すると、急激に悪化するなどと、

聞いております。皆様の大切なお子様を守る意味でも、是非できる範囲での

協力をいたしましょう。

 

連休を控えて、少し気持ちもダウンしがちですが、名曲を聞いてお過ごしください。

本日はモーツアルトとラフマニノフの作品です。

まずはモーツアルトからです。

 

ピアノ・ソナタ 第15番

 


ピアノ・ソナタ 第15番 ハ長調 K.545 第1楽章

可愛らしい曲ですね。 弾いたことがある方は多いと思います。

ハ長調ですし、一見引きやすそうなのですが、これをきれいに弾くのが

結構難しいのです。

 

この曲はモーツアルトが自作の作品目録に1788年6月26日の日付とともに

「初心者のための小さなソナタ」時しており、ソナタアルバムにも収められて

いることから、ピアノ学習者にはおなじみの曲となっています。

一度は弾いてみたい曲ですね。

 

さて次は、ラフマニノフのピアノ協奏曲です。

 

ピアノ協奏曲 第3番 ニ短調

 

 

ピアノ協奏曲 第3番 ニ短調 作品30 第3楽章

難曲に挑戦するうちに精神を病んでゆくピアニストを主人公とした映画

「シャイン」でその魅力が広く知られるようになりました。

この曲はロシアの作曲家、セルゲイ・ラフマニノフが第3番目に書いた

ピアノ協奏曲です。1909年の夏に作曲され、同11月にニューヨークで初演された。

 

ピアノ協奏曲2番と共にラフマニノフの代表作の一つで、演奏者に課せられる

技術的、音楽的要求の高さで有名な作品である。

ということで、やはり弾いでいる映像もご紹介します。

 

 

セルゲイ・ラフマニノフ

 

 

セルゲイ ラフマニノフは1873年の4月1日にロシアで生まれました。

父親は音楽の素養のある人物で、裕福であったが、セルゲイが生まれた頃には

一家はすでにかなり没落していたという。4歳の時、姉たちのために雇われた

家庭教師が彼の音楽の才能に気がついたことがきっかけで、ピアノのレッスンを

始めた。しかし彼が9歳の時に一家は破産し、両親は離婚し、父は家族のもとを

去っていた。セルゲイは音楽の才能を認められ、奨学金を経てペテルブルク音楽院の

幼年クラスに入学することができた。

 

しかし彼は不良学生で、12歳の時に全ての学科の試験で落第するという事態に

陥った。悩んだ母は、モスクワ音楽院に転入しピアノを学ぶことになった。

彼に指導をしたズヴェーレフはラフマニノフにピアノ演奏の基礎をたたき込んだ。

ズヴェーレフ邸には多くの音楽家が訪れ、特に彼はチャイコフスキーに才能を認められた。

 

作曲への衝動

 

先生は弟子たちにピアノ演奏以外のことに興味を持つことを禁じていたが、

どうしても作曲への衝動を抑えきれなかったラフマニノフは、師と対立し

先生の本を去った。

 

まとめ

 

ラフマニノフはピアノの名手でもありました。厳しい先生に指導を受けていたのも

肯けます。ロシア人作曲家のピアノ協奏曲は、大変に困難なものが多く、体の大きな

ロシア人の手でも難しいのに、日本人の女性が弾くのはとても困難です。

 

しかし誰でも初めは初心者で、ラフマニノフも苦労して練習をしたことでしょう。

見習いたいです。

 

ではまた。

 

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舞踏への勧誘(ウエーバー)、サティ 「ピカデリー」 ピアノ名曲100 選より

みなさんこんにちは。

なんと、コロナの第4波が変異種と共に襲来しているようです。

再び、あの厳戒態勢のような、生活になっていくのでしょうか。

私の場合、正直言って、もう気持ちが緩んでしまって、「またですか?」

みたいな感じです。 ずっと隠居暮らしのような一年ですね。

 

さて本日も2曲お届けします。

まずは、フランス人の作曲家、エリック・サティの「ピカデリー」と

ウエーバーの「舞踏への勧誘」変ニ長調 作品65 です。

 

 

ピカデリー

 

サティーが1901年にオーケストラように書かれたものですが、1904年に独奏用に

編曲されたものがよく演奏されている。

 

しばしば映画やCMなどに使用されている。例えば、

のだめカンタービレ(テレビドラマ) 第2話でBGMとして使用されている。

眼鏡市場 ぺ・ヨンジュン主演のCMで、アレンジされたものがBGMとして使用。

素晴らしき日々〜不連続存在〜 オリジナルでアレンジされたものが作中で使用。

 

どこかで耳にしたことがあるような感じです。

そして、なんとなく、コミカルな雰囲気もありますね。

 

そして2曲めは、

 

舞踏への勧誘 ウエーバー

 

舞踏会場で交わされる男女の対話が描かれています。

 

 

1819年に作曲されたこの曲は、ウエーバーが妻にカロリーネに捧げた作品である。

またベルリオーズ編曲による管弦楽版でも広く知られている。

2003年のウイーンフィルのニューイヤーコンサートにも登場している。

ウインナーワルツの雛形となった作品である。踊り出したくなるような曲ですね。

 

ではオーケストラ版も聞いてみましょう。

 

オーケストラ版 舞踏への勧誘

 

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香港フィルハーモニーの演奏ですが、私は初めてしりました。(無知でございます。)

香港は元はイギリス領ですから、文化的背景からするとなんの問題もありません。

しかし、クラッシック音楽は国境を超えて世界中に広まっていますね。

私たちがワルツを踊る習慣はあまりありませんが、ドイツなどでは皆ワルツに

対して、プライドを持っているようです。

 

まとめ

 

いかがでしたか。

今日は本当に、愉快で楽しい2つの作品でしたね。

音楽を聴くことで、心が踊ったり、癒されたり、安心したり、音楽のある生活

というのは、うまく日常に音楽を組み込んで、自分の心を良い状態にしておけるもの

と、私は思います。是非音楽を生活に取り入れてみてください。

 

ではまた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「夜のガスパール」よりオンディーヌ(ラヴェル)、 即興曲 第2番(フォーレ)

皆さん、こんにちは。

いよいよ新学期がスタートして、フレッシュな学生さんたちが

初々しい姿を見せてくれていますね。本当に可愛らしいです。

でもとうの本人は期待と不安でいっぱいだと思いますが、これも人生の

試練ですから、乗り越えていただきたいです。

 

さて本日は「夜のガスパール」よりオンディーヌ、と

即興曲 第2番です。まずはラベルの作品からお届けします。

 

夜のガスパールよりオンディーヌ

 

 

題名のオンディーヌとは「水の精」のことです。

この幻想的な世界観は、フランス印象主義の特徴ですね。

「夜のガスパール」は、ルイ・ベルトランの詩集、及びそれを題材にした

ラヴェルのピアノ組曲です。

 

詩の内容

 

人間の男(ガスパール)に恋をした水の精オンディーヌが、結婚をして湖の王になってくれと

愛を告白する。男がそれを断るとオンディーヌは悔しがってしばらくなくが、

やがて大声で笑い、激しい雨の中を消え去る。

というストーリーに忠実に音楽で表現したと、言われています。

 

次に、フォーレの即興曲 第2番 ヘ短調です。

 

 

毎回色々なピアニストの動画を聞いていただいていますが、こちらの動画は

ゆったりとして、しっかり弾いていますね。とても参考になります。

 

フォーレ

 

 

フォーレの肖像画です。彼は1845年の5月12日生まれのフランスの作曲家です。

ちょっと食事がしづらそうな、お髭ですが。

 

ガブリエル・フォーレは教師だった父より教会のリード・オルガンに

触れることから才能を見出された。なんと9歳の時に音楽学校に入学して

1861年にカミーユ・サン=サーンスにピアノと作曲を師事した。

卒業後は教会のオルガニストとして活躍した。

 

フォーレは小規模編成の楽曲を好み、室内楽作品に名作が多い。

また多くのピアノ曲、歌曲を作った。しかし晩年に、難聴になり

高い音が低く、低い音がより高く聞こえるという症状に悩まされながら

作曲を続けた。そのため次第に簡潔で厳しい作風へと向かって行った。

 

 

まとめ

 

今回の2曲を聴き比べると、作風の違いがよくわかると思います。

どちらもフランス人ですが、生きていた時代が少し違うだけです。

フォーレは1896年にフランス国立音楽・演劇学校の作曲科教授になって

その門弟には、ラヴェル、デュカスなどがいました。

お父さん同様良い音楽教育者であったそうです。

 

フォーレは若い頃数々の女性との交際があり、彼の孫とされる

日仏混血の、フォーレ・ハラダという画家がいました。

本人によると、フランス人の父(ピアニスト)、日本人の母(ピアニスト)で

アヴィニヨン生まれで、国籍は日本。フランス、ドイツ、日本、インドなどで

教育を受け、日本とアメリカに暮らしながら、禅アーチストとして外国人に

墨絵を教えていたそうです。

 

ではまた。

 

 

 

 

 

 

 

「ワルトシュタイン」「エステ荘の噴水」 ピアノ名曲集 ベートーベン、リストの作品より

みなさんこんにちは、お元気ですか?

桜が散り始め、入学式も終わり、いよいよ新しい生活が

始まった方も多いと思います。

式典には音楽がつきものですが、最近では「校歌」なども歌うことが

あまりないようです。少し寂しいですね。

 

さて今日お届けする「元気の出るピアノ曲」は

ベートーベンとリストの作品からです。

 

ピアノソナタ 「ワルトシュタイン」

 

ベートーベン作曲のピアノソナタ「ワルトシュタイン」(第21番)

ハ短調 作品53 から第1楽章

 

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この曲の「ワルトシュタイン」というのは、ワルトシュタイン公爵のことで

ベートーベンはこの公爵からピアノをプレゼントされたことがあったそうです。

しかしこの曲を書くきっかけは、パリのエラール社から当時の最新式のピアノを

もらったことで、楽器の進歩は(特にピアノ)は彼の創作意欲をかき立てたようです。

 

また、ピアノの発表会や、受験生にとってはおなじみの曲ではないでしょうか。

ベートーベンらしい、すっきりとしたダイナミックな曲ですね。

 

次の曲はハンガリー出身の作曲家であり名ピアニストであったリストの

「エステ荘の噴水」です。 もう題名からしてイメージが湧いてきます。

 

 

エステ荘の噴水「巡礼の年」 第3年」より

 

リストが晩年に書いた「巡礼の年第3年」の4曲。

水の情景を見事に音に移し替えた曲で、ラヴェルの「水の戯れ」や

ドビュッシーの「水の反映」などの先駆けを成すものです。

 

リストは12歳の時に2度目のピアノの演奏会を開いていますが、その時に

ベートーベンが会場で彼の演奏を聞き、大変感心して、舞台に上がり

リストを抱きしめ、褒め称えたそうです。

今、こうして2人の作品を同時に聴くことができるのは、ありがたいです。

 

 

ベートーベンとリストです。晩年のリストの写真は珍しいですが、長い髪は

やはりリストのポイントですね。大変良い顔をしています。芸術家の顔ですね。

 

フランツ・リスト

 

ハンガリー生まれのリストは10歳の頃にウィーンに移住して演奏活動などを

行っていました。その頃の先生は、あのツェルニーや、サリエリだったそうです。

しかし彼が15歳の時に父が他界し、ピアノ教師として家計を支えたそうです。

同時に障害にわたりカトリック信仰を深めました。

 

1831年にパガニーニの演奏を聞き大変な感銘を受け、自らも超絶技巧を

目指すようになりました。

同時期の友人としては、ベルリオーズ、ショパン、シューマンなどがいます。

そして当時としては身長も185センチもありアイドル的で、しばしばその演奏を聞いた女性が

失神してしまうほどだったそうです。

 

正式な結婚ではありませんでしたが、マリー・ダグー伯爵夫人とスイスへ

逃避行して約10年間生活をしました。そんな2人の間には3人の子供がおり

そのうちの一人は、のちに指揮者になる、ハンス・フォン・ビューロー と

後にワーグナーの妻になる、コジマである。

 

1865年からは、僧籍に入るが典礼を司る資格はなかったために、作曲活動も

続けていた。1870年代になると彼の作品からは次第に調性感が薄くなっていき

この「エステ荘の噴水」は20世紀の印象主義音楽に影響を与えた。

晩年リストは、鬱病、虚血性心疾患、慢性気管支炎などに苦しんだ。

 

1886年、バイロイト音楽祭でワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」を見た後に

慢性気道閉塞と心筋梗塞で他界した。

 

まとめ

 

みんな誰かの影響を受けて、そして誰かに影響を与えている。

特に優れた芸樹家たちは、それを強く感じますね。

もちろん私たちも、お互いに影響しあって生きています。

良い影響も、よくない影響もありますが。

 

皆さんが影響を受けた方はどなたでしょうか。

幼い時は両親や兄弟、親戚の方などですが、学校生活が始まり

学友や、サークル仲間、今ではコミュニテイーなどの方達との関わりも

ありますね。現在はコロナの関係で、人間関係に少し変化が出てきたかも

しれません。 それも良い変化でありたいです。

 

ではまた。

 

お知らせ

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ピアノ名曲集 元気の出る曲シリーズより  「飛翔 と「ロンド・カプリチオーソ」

みなさんこんにちは。お元気ですか?

いつもご覧くださり、ありがとうございます。

今まで毎回、作品を1〜2曲ご紹介していますが、本日から

毎回2〜3曲づつまとめてご紹介したいと思います。

 

今日の作品はまず、シューマンの「飛翔」、そして

メンデルスゾーンの「ロンド・カプリチオーソ」の2作品です。

 

飛翔 シューマン

 

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飛翔 「幻想小曲集 作品12」より。

 

この曲集はロベルト・シューマンが1837年に作曲した、8曲からなるピアノ曲集です。

第1曲から、それぞれにタイトルが付けられている。その第2曲めが「飛翔」です。

ロンド形式のヘ短調で、最も有名な作品です。力強い冒頭が印象的ですね。

 

ロベルト・シューマン

 

 

シューマンは1810年にドイツで生まれました。

7歳の時からピアノを習いましたが、作曲の方にも大変興味を示し、

11歳の時には誰にも教わらずに合唱曲や管弦楽曲を作曲しました。

中学生のことには文学にも興味を示し、その後、法律の勉強をするために

大学へ入りましたが、そこでも法律よりは、文学や哲学が好きでした。

 

20歳の時、ピアニストになろうと決心し、そのため正式に音楽の勉強を

始めました。 シューマンはピアノを練習する時に、天井から下ろした紐に

指をくくりつけて練習していました。これは、指を強くするためにやったのですが

あまりに無理をしたため、かえって指を痛め、ピアニストには慣れませんでした。

 

それでその後は、作曲や文学の方に力をいれるようになったのです。

 

作品

 

彼は「トロイメライ」などのピアノ曲を多く作曲しましたが、また音楽の雑誌

も出版して活躍しました。ショパンやブラームスも、その雑誌によって、多くの

人に知られるようになりました。

30歳をすぎてからは、ピアノ曲の他にも、交響曲や歌曲など色々な曲を作りました。

 

33歳の時にメンデルスゾーンが作った、ライプツィヒ音楽学校の先生になりましたが

校長であったメンデルスゾーンと仲が悪くなり、1年でやめてしまいました。

43歳の頃から精神病になり、ライン河に飛び込んで自殺未遂となり、その後精神病院に

入院し、回復しないまま46歳で他界しました。

 

では、もう一曲「ロンド・カプリチオーソ」ホ短調 作品14

メンデルスゾーン作曲です。

 

 

ロンド・カプリチオーソ

 

ロンド・カプリチオーソ ホ長調 作品14

メンデルスゾーン作曲

大変優美な序奏と、後から軽快なリズムがバランスよくて美しい曲です。

メンデルスゾーンについては以前の「春の歌」の時にお話ししています。

ぜひそちらもご覧になってください。

 

まとめ

 

今日は2つの作品をご紹介しました。

偶然にもこのお二人は、一度は同じ学校で「校長と教師」という立場

であったのですね。 今こうして2人の作品を聞きますと、どちらも

素晴らしく、何があったのかは、分かりませんが、後世に残したものは

どちらも名曲です。

 

当時も今も人間関係は難しいこともある、ということでしょうか。

 

ではまた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

元気の出るピアノ曲 「名曲ピアノ100選」 ショパンのエチュード 第5番「黒鍵」

みなさんこんにちは。

今日の関東地方はあいにくの雨模様です。

天気がよくないと、こうも気持ちが変わるものなのだな、と最近

思います。 現在もあまり外出は奨励されていませんから、こんな日は

家の中でまったり過ごすのも良いでしょう。

 

さて本日、ショパンのエチュード「黒鍵」をお届けします。

この「ピアノ名曲集」に何度も名前が出てくるショパンは、流石にピアノ曲の

名作を多く作曲されたかたですから、うなずけますね。。

 

エチュード 「黒鍵」

 

 

エチュード 第5番 変ト長調

 

この曲『黒鍵』は、ご覧になって見ますと、右手はほとんどが黒鍵ですね、

途中から左手の方には白鍵が出てきますが、お見事です。

エチュードとは「練習曲」のことですが、このショパンのエチュードは

「練習曲」というより名作、名曲ですね、そして、このショパンのエチュードは

どれも演奏に大変高度なテクニックと音楽性が要求されます。

 

このエチュードを弾くために、大変な練習が必要になるということです。

そして指を早く動かす練習には、とても有効です。

 

エチュード

 

練習曲には、目的があります。

だんだんとピアノのレベルが上がりますと、素早く指を動かすことが

要求されてきます。ですから「指が早く動かない!」ではなくて

「指を早く動くようにしましょう」ということです。

ですから、指ならしとして活用している方も多いです。

 

ジャズピアニストの方もまずショパンのエチュードを弾く、という方も

いらっしゃいます。

指を早く動かすことで、演奏に必要なゆびや腕の筋肉が発達して、さらに

演奏しやすくなります。

 

なるほど、やればやるほど上手くなるのですね。

 

 

楽譜

 

次に楽譜を見て見ましょう。

うあーー! フラットが6つありますね。

ピアノの習い始めは、しばらく白鍵ばかりですから、黒鍵と聞くと

弾き辛そう、と思っちゃいますね。でも逆に黒鍵ばっかりと思えば

そうでもないです。 (なーんて! 弾けないけど。)

 

とにかくテンポよく、流れるように弾きたいですね。

 

まとめ

 

ピアノを習っていると、いつかは弾きたい、ショパンの曲。

特にこの「エチュード」はテクニックを鍛えるのに最高ですね。

曲としても素晴らしいので、練習が楽しくなることでしょう。

本当に、「私、ピアノを弾いてまーすー!」 という気分にさせて

くださいます。ありがとうございますショパン様、でも難しいのよ。

 

 

お知らせ。 ピアノを習いたいけど、少し躊躇している方へ、

まず、ご自分で初めて見てはいかがでしょう。

最近は、結構良いものがあります。

千里のみちも、一歩から。

 

30日でマスターするピアノ教本

 

ではまた。

 

現役ピアノ教師が選んだ「ピアノ名曲集 100選」「風変わりな美女」より(l:大リトルネロ)

みなさんこんにちは。

4月に入りました。今日も縁起の良い日だそうです。

宝くじでも買ってみようかしら。

 

さて本日は、エリック・サティ作曲の作品をお届けします。

 

大リトルネロ

 

 

この曲はシャンゼリゼ劇場の舞踏家カリアティスのために

ミュージック・ホールの音楽を織り交ぜて書かれた管弦楽曲で

ピアノの4手連弾用も作られました。

 

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上記の自動演奏は連弾用の楽譜が出てきます。

写真の方がエリック・サティ氏で大変な変わり者だったそうです。

では彼の人生について見ていきましょう。

 

エリック・サティ

 

 

サティはパリ音楽院在学中に指導教授より、才能がないと否定され

1885年に2年半あまりで除籍になった。

その間の作品は、1884年に処女作「アレグロ」(ピアノ曲)や

「アレグロ」、「オジーヴ」、そして「ジムノペディ」や「グノシエンヌ」

などを発表した。

 

あの名作「ジムノペディ」の独特の響きは良いのにね。

 

1887年からモンマルトルに居住し、1890年からコルト通り6番地に居住する。

モンマルトルのカフェ・コンセール「黒猫」に集う芸術家の1人になり、

ドビュッシー、コクトーやピカソたちと交流した。このカフェ・コンセールのための

声楽曲も書いている。

 

名曲「ジュ・トゥ・ヴー」はこの時の作品だそうです。

彼は酒場でピアノを演奏して主な生計を立てていました。ですから

お客さんの邪魔になるような演奏はできませんでした。その辺りも彼の作風に

影響しているかもしれませんね。

 

変わり者と言われる理由の一つに、奇妙な題名をつけることがあげられる。

「犬のためのブヨブヨとした前奏曲」や、「なしの形をした3つの小品」

「胎児の干物」「裸の子供たち」や、バレエ「本日休演」など、

想像するだけでも面白いです。

 

作風

 

若い頃に教会に入り浸っていた影響か、教会旋法(スケール、モード)を

自分の作品に取り込んでいる。そして調性や、和声進行も無視して、対位法の

違反進行も書かれていた。

時代や、やがて無調に入っていきましたから、まさに先駆けでしたね。

教会旋法はジャズの世界でも取り上げています。モードジャスなどがその例ですね。

 

交流のあったドビュッシーやラベルも旋法を扱うようになり、新しい雰囲気を出すことに

成功している。 これはサティの功績でしょうね。

そしてのちに彼は調号表記も捨てた。拍子記号や小節線、終止符すらも廃止した。

これは発展してオリビエ.メシアンなどの現代音楽家へと続いて行った。

 

変わり者伝説

 

彼が本当に変わっていたのか、確かに今までとは違うものを表現したのは事実ですね。

1889年にパリ万博で彼は日本の歌謡曲を聞いたそうです。翌年に薔薇十字教団に入り

1891年に聖杯の薔薇十字教団聖歌隊長に任命されている。

宗教との関わりは深かったようです。

 

1893年にシュザンヌ・ヴァラドンと交際を始め、300通を超える手紙を書き、

6ヶ月後に絶交した。1905年には演奏会の会場で雨傘で決闘して警察に拘留される

など、人間味あふれるかたのようでした。

1925年7月1日聖ジョセフ病院にて肝硬変のため他界。

 

まとめ

 

我が道を行くタイプのサティですね。

人は必ず何かの影響を受けますが、それを作品に昇華させたことが

彼の何より素晴らしかったところですね。 私なども愚痴ばかり吐いていないで、

これを何かに変えてゆくぞ、ぐらいの気持ちがあると良いですね。